廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 番外編:松永久秀04 --

奇妙だ。
紅は自分の身体に起こっている異変に気付く。
血を失っているのは、全身の気だるさから明らかだ。
利き腕の肩辺りに傷があるのも、皮膚が引きつる感覚でわかる。
けれど、そこに人間としてあるべきもの―――痛みがない。
痛覚が麻痺する程に酷い傷だったのだろうかと思い、即座にその考えを改める。
戯れ程度の止血が施されたそこは、命を差揺するほどとは思えない。

「目を覚ましたか」

痛みが麻痺している所為で、傷を負っているにも拘らず即座に反応できた。
危険だと、本能が告げる。

「死なれては困るのでね…適当に処置させてもらった」
「松永…」

笑いを浮かべながらそう言って登場したのは、この怪我の原因である松永久秀だ。
人質―――目的達成の為のそれは、生きていてこそ意味がある。
彼の言葉がそれを指しているのだと気付くまでに、そう長居時間は必要なかった。

「松永様!斥候が戻りました!!」
「そうか」

短く答えた松永の向こうに、ザッと地面に膝を着く兵が見えた。
その兵を見て、紅は驚いたように目を見開く。
赤く染まった甲冑は元々その様な毒々しい色をしているのではない。
ふと鉄臭さが嗅覚を刺激し、紅は記憶に残る映像を思い出した。
あの兵は自分が斬った兵だ。
致命傷ではなかった筈だが、それにしてもかなり深い傷を負わせたはず。

「どうして…動ける傷ではなかった筈…」
「人は痛みゆえに恐れ、臆する。それを取り除きさえすれば、思う以上によく動く駒になるものだ」

松永の返答に、紅は言葉を失った。

「なんてことを…。痛覚は身体が発する自己防衛的な感覚」

それを消し去ると言う事は、限界を見失うと言う事だ。
顔色を失い、唇を振るわせる。
この男は、最早人を人とも思っていない。
紅の反応を見た松永は、冷酷な声で嘲笑う。

「恐怖に怯える輩など必要ない。私は君達とは違うのだよ」
「それが人を物のように扱ってもいいと言う理由にはならないわ!」

そう言って声を荒らげると、脳内がぐわんと揺れた。
失血による貧血だ。
何をされたのかは分からないが、自分にも兵に使われた痛覚を麻痺させる何かが作用しているらしい。
痛みもなく唐突に身体に異変が起こる所為で、対処が遅れる。
確かに痛みに対する恐怖は取り除けるだろうが、これは他の感覚すら危ぶませる恐ろしいものだ。
貧血独特の、急速な視野の低下に、紅は心中で舌を打つ。
これでは、突然動けなくなったと思ったら足を失っていた、なんてことになりかねない。
感覚が戻らなければ、刀を持つ事はとても危険な事のように思えた。
松永自身もそれを理解した上で、彼女を拘束することもなく、また武器すらも奪っていないのだろう。
いざとなれば即座に斬り捨てる事ができる―――そんな自信の表れなのかもしれない。

「ひとつ、いい事を教えてやろう。独眼竜とその右目がもう間もなくこの場に到着する」

突然の報告。
予想していた事だが、紅は表情を歪めた。
政宗を止めることなど出来ないだろうと思っていた。
せめて時間稼ぎだけでも…と思ったが、それすらもままならなかったのだろう。

「卿の行動は、その全てが無駄な足掻きだったと言う事だ」

いや、寧ろ松永の好都合な展開と言えるだろう。
兵を人質に取っただけでも十分だっただろうが、そこに彼女の存在が加わった。
伊達の戦姫の噂は遠くまで届いている。
竜の寵愛を一身に受ける姫だということも、同時に。
そんな彼女がここにいて、竜が大人しくしているはずがない。
斥候からの報告に口角を持ち上げたのは、少し前の事だ。

「―――政宗様が来る前に全てを終わらせればいいだけの話よ」

政宗が来る。
それを聞き、紅は確信した。
氷景は彼よりも早く本陣を目指しているはずだ。
彼の忍としての能力を考えると、もう間もなくこの場にやってくる筈。
彼に人質を任せれば問題はこの男一人だ。
その時までに痛覚が戻る事はないだろうけれど、それは逆に都合がいいのかもしれない。
この男を倒すには、その程度の覚悟は必要だった。

「知っているかね?金さえ積めば、忍は思うように動くものだ」
「…私の忍を侮らないで欲しいわ。彼は金で動くような忍じゃない」
「卿の忍など興味はない。…私のところにも優秀な忍がいてね―――今頃は、忍同士の一騎討ちか…」

松永が雇う以上、ある程度名を馳せた忍だと考えるべきだ。
紅はその事実に眉を顰めた。
氷景の能力がそれに劣るとは思わない。
死ぬ気で向かってこられれば一瞬で片をつけられるが、時間を稼がれるとそれもままならない。
今までの経験からそれを知っている紅は、氷景の助力が望めない事を理解した。
グッと強く拳を握る。
爪が掌に食い込むように動かすと、鈍い痛みが伝わってきた。
徐々に感覚が戻ってきているようだ。
無茶を…出来るだろうか。
今までに経験した事のない感覚なので、あと一歩が踏み出せないでいる。
こうして迷っている間にも政宗がここに近づいてきている。
それを思い出したところで、紅はその一線をあっさりと超えてしまった。
刀を抜き、構える紅。
ゆっくりと立ち上がった彼女を見て、松永は笑みを深めた。

「生憎、卿に付き合っている暇はなさそうだ」

そう言うと、彼は紅に背を向けて崖の方へと歩いていく。
彼の進む先には、例の柱に括りつけられた兵士が居る。

「卿が動けば、人質を解放しよう。このように―――」

そのすぐ前まで進むと、抜き身のそれを迷いなく振り下ろした。
ブツッと嫌な音がして、綱が寸断される。

「――――っ!!」

音が耳に届くよりも早く、紅は走り出していた。
命綱を失った柱の重心が崖の方へと傾いていく。
伊達兵が恐怖に表情を歪め、声の限り何かを叫んでいるが、その声は何かに遮断されたように聞こえなかった。
紅の視界で、ゆっくりと傾いでいくそれ。
半ば飛び出すようにそれに向かって手を伸ばすと、指先が綱を掠めた。
迷うこともなくそれを両手で掴む。

「―――っああああっ!!」

柱と、兵自身の重さがその綱一本に掛かってくるのだ。
その重量は、とてもではないが紅一人に支えられるものではない。
引きずられるようにして地面に倒れこんだ彼女は、その勢いで上半身を強く地面に打ち付けた。
松永によって傷つけられた肩の傷が開いたのか、そこから新たな血が溢れ出す。
痛覚が戻ってきている所為で、痛みに指先の力が緩んでしまった。
手の中を滑るようにして綱が逃げていく。
駄目だと思った時には、既に遅すぎた。
スルリと掌から抜け落ちたそれは、重力に従って崖の下へと落下して小さくなっていく。
やがて、その姿は下に広がる木々により見えなくなった。




地面に伏したまま、唇を噛み締める紅。
彼女一人で救える命ではなかった。
けれど、救えなかった命である事に変わりはない。
心臓が肩の傷の位置に移動してしまったような錯覚を起こすほどに、ドクンドクンと血が溢れ出ている。
紅はゆっくりと自分の掌を開いた。
綱の摩擦により擦り切れたそこが新たな血を滲ませている。
その傷が、掌をすり抜けた命を思い出させた。

「…っいやあああああっ!!!」

彼女の叫びと、入り口の氷塊が破壊されたのは、ほぼ同時だった。

08.03.30