廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

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紅が姿を見せると、準備に沸いていたその場が一瞬、音を失った。
戦に向かう軍に女が姿を見せた事が理由ではない。
紅が―――懐妊し、本来であれば城で養生すべき彼女が、戦装束に身を包んでいたからだ。
事情を知らぬ兵たちだが、訳合って彼女が参加する事だけは知らされていた。
その配慮は、氷景と小十郎によるもの。
しかし、いざその姿を見てしまうと…自らの身ではないと言うのに、不思議な緊張感が漂う。


紅は自然と左右に割れた兵たちの間を通り、真っ直ぐ愛馬、虎吉の元へと歩く。
馬装を施された青毛の彼は、久々の出陣に少しばかり浮足立った様子だ。
だが、紅が近付くと、その興奮は驚くほどに落ち着きを取り戻し、伸ばされた彼女の手の平に頬を寄せる。
紅は鐙に足をかけ、誰が声をかける暇もなく、危なげない動作で鞍に跨った。
その動きに、一切の迷いはない。

「…準備を」

彼女の様子は、今まで見てきたものと何の変りもない。
これならば大丈夫なのだろうと、その場にいた誰もが安堵した。
ただ一人…他ならぬ紅だけが、自分の変化への戸惑いを、凛とした仮面の下へと隠す。

鐙に足をかけ、鞍に跨るだけの何千回と繰り返してきた行動。
呼吸にも等しいはずのそれに、これほど緊張した事はない。
かつて、初めて馬に乗った時ですら。
それは、自分自身が不安を抱いているからに他ならない。
この不安を兵に伝えてはいけないと、ただそれだけを考え、仮面の下へと押し込んだ。


準備に急ぐ兵たちの傍らで、紅はギュッと手の平を握る。
すると、視界の端から入り込んだ別の手が、紅のそれを上から握りこんだ。
驚くように顔を上げた先に、政宗の姿がある。
同じように馬上にいる彼がいつ、紅の隣に並んだのか。
気付かなかった自分を恥じ、同時に気付いてくれていた彼に歓喜する心。

「それでいい」

将たる者、兵に不安を与えてはならない。
いつでも前を向き、後ろを歩く兵たちが決して迷わず共に進んで来られるように。
道しるべとなるべき背中は、常に真っ直ぐに伸びていなければならないのだ。
紅はそれを、政宗の背中から学んだ。
それを身を以て実践できていると言う事。
政宗に褒められる以上の喜びが、どこにあると言うのだろうか。

「だが、無理はするな。俺との約束は―――」
「覚えています」

離れるなと、出来ない約束を守れとは言わなかった。
ただ彼は、必ず生きろと…そう言った。

「お前のこの種の我侭は、これが最後だ。尤も…お前が、そうするだろうけどな」
「政宗様…」
「けじめがついたら、何を言われようが、お前を戦には連れて行かない。黙って帰りを待て」

城から出るなとは言わないが、例え何があろうと戦には連れて行かない。
はっきりとそう断言する彼に、紅は小さく微笑んだ。

「はい。城にてあなたと伊達軍の無事を祈り、笑顔でお迎えすると誓います」

紅の答えは政宗を満足させるには十分だったのだろう。
彼は目を細めて紅の頬を撫で、軍の仕上がりを見るべく馬を走らせ彼女の元を去った。
入れ替わるようにしてやってきたのは氷景。
機動力を優先し、彼は馬を使わない。
その気になれば馬と同じ速度で走ることが出来るし、視察などには凍雲を使う方が便利なのだ。

「姫さん、笛を」
「ええ」

戦の時、恒例となっているやり取りにももう慣れた。
かつては手首に巻かれたそれは、利便性により首元に下げる形に改良されている。
その笛を手に取り、息を吹き込む―――音はない。

「…大丈夫だな」

氷景が頷く。
彼にだけ聞こえる音。

「今回の戦は、竹中半兵衛の策略だ。罠だとわかった上で、姫さんは敵地に乗り込む事になる」
「…ええ」
「出来る限り、姫さんの元を離れない。だが、戦場で絶対はない。離れたら、笛を鳴らしてくれ」

どんなに周囲が騒がしかろうと、必ずその音を拾って駆けつけるから。
強い目に、紅はただ一度、頷く。

「………」
「まだ何かあるの?」

答えて尚、その場から動こうとせず、じっとしたままの氷景。
紅が疑問を抱くのも無理はない。

「竹中半兵衛は松永久秀ほど極悪非道じゃない。だが…目的のためには手段を選ばない男だ」
「―――――」
「何があっても、何を見ても―――目的を、忘れないでくれ」

もしかすると、氷景は何かを知っているのだろうか。
氷のように色素の薄いその目が、何を語っているのか。
真意を読み取る事は出来ず、わかるのは、彼が紅を生かしたいと考えてくれている事だけ。

「氷景は、何かを…知っているの?」
「確証がない。だから、言えない」

紅の為を思い、口ごもる事はある。
けれど彼は決して、嘘偽りは言わなかった。

「氷景」
「…はっ」
「あなたを信じてる。だから…今は、これ以上聞かないわ。ありがとう」

そう締めくくられた言葉に、氷景は静かにその場に膝をつく。
今のこのご時世、忍と言う職を持つ人間は役に立つ。
いや、そう思う人間にとって、忍は“人間”ではなかった。
命じられるままに動く、闇の生き物。
信じている―――主からそんな言葉を貰える忍が、何人いるのだろうか。

忍だって人間として生きる権利はある。
だから彼は、自分が心から仕えたいと思った人を、一生の主にする―――ずっと、そう思っていた。

その一人を決めずに生きてきた氷景は、紅と出会い、彼女を主と決めた。
この人は何があっても間違えない。
もし間違いを起こそうとしたとしても、政宗がそれを許さない。
この人なら信じて行ける。
そう確信して、選んだ。

その人が信じてくれている―――喜び以外の感情があると言うのか。

「あんたを選んでよかった」

小さな笑みと共に呟いた声は、彼女には聞こえなかったようだ。
氷景?と問う彼女に、彼は何も言わず首を振る。

出陣の時は、すぐそこまで迫っていた。

11.02.27