廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

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お世話になりました。
そう言って深く頭を下げる紅に、謙信は穏やかな笑みを向ける。

「随分と心配性な主を持っていますね」

謙信がそう言うと、紅は意味がわからないと言いたげな表情を見せる。
しかし、それも一瞬のこと。
言葉の真意を理解した彼女は、バッと振り返り、後ろに控えていた氷景を見る。
こくり。
彼は、ただ一度だけ頷く。
それで十分だった。

「…まったく…」

溜め息と共に額に手を当てる紅を見て、謙信は微笑ましげに目を細めた。
奥州の竜―――独眼竜、伊達政宗と言えば、この乱世でもそれなりに名の通った武将である。
武田信玄を好敵手と認める謙信にとって、政宗はまだまだ若輩者だった。
しかし、その求心力には目を見張るものがある。
奥州に程近い越後にも、その国の噂は伝わってくる。


その出生を誰も知らない。その生い立ちを、誰も知らない。
にも関わらず、国を愛し、そして国と、そこに生きる人々の為に刀を取る。
そんな姿勢が、人々に受け入れられ、そして愛された。
それが、奥州の戦姫。

「そなたに会えたこと…御仏に感謝しましょう」

突然の謙信の言葉は、紅には理解しがたいものだった。
そもそも信仰心の厚くない彼女には謙信の考えそのものが理解できない部分も多い。
そして何より、あまりにも唐突過ぎる言葉は、その意味を彼女に教えてはくれなかったのだ。

「次に合い見えるところが戦場であったならば、容赦はしません。…そなたも、全力で挑んでくるでしょう」
「…もちろんです」

奥州と越後は同盟国ではない。
戦場で対立する可能性は高く、彼の言葉は酷く現実味を帯びていた。
深く頷いた彼女は、しかし、と言葉を繋ぐ。

「此度、上杉様にお情けをいただいた事…私は、決して忘れません。このご恩、必ずお返しいたします」

そう紡ぎ、もう一度深く頭を下げる。
ありがとうございました、床に伏したまま再度礼を紡ぐ彼女に、謙信はそっと頷く。

「良いでしょう。敵ではなく、こうして見えるその時を…楽しみにしています」
















城を出た紅は、その場で溜め息を吐き出す。
流石に軍を率いては来ないだろうと思っていた。
しかし…まさか、単騎で敵陣に乗り込んでくるとは予想していなかった。
目の前で飛び切りの軍馬に跨る主を見据え、口を開く。

「無謀すぎます」
「Ha!ご挨拶だな。迎えに来てやったって言うのに」

楽しげに笑う彼に、軽い頭痛を感じた。
小十郎の苦労がわかるな―――と思ったところで、そう言えば、と視線を巡らせる。
常に政宗の傍にいる、小十郎の姿が見えない。

「…まさか、政宗様…」

嫌な予感は出来れば当たって欲しくないと思う。
しかし、この状況から考えると―――

「さっさと帰るぞ」

抜け出してきたからな、と告げる彼に、やっぱり、と青褪める紅。
今から帰ると言っても、小十郎に気付かれずに、と言うのは難しい。
恐らく、小十郎は政宗の不在に気付き、城を出ているだろう。
道中で彼と合流して、そのまま城に帰って―――

「…三時間くらいかしら…」

説教の時間を想像して、遠い目を見せる紅。
事情を話せば不満を言いながらも小十郎は政宗についてくるし、彼を閉じ込めたりはしない。
それなのに、この人は何故小十郎に黙って城を抜け出してくるのか。
まるで、兄弟に構って欲しくて悪戯をする幼子のようだと言ったら、怒られるだろうか。

「収穫はあったか?」
「ええ。上杉殿はとても良い方でした」

先ほどまでの表情を一変させ、笑顔を見せる紅。
城を飛び出していった時の憂いの表情はなく、清々しさすら感じさせるものだ。
紅の表情の変化に安堵すると共に、それを引き出している謙信への嫉妬心が鎌首を擡げてくる。
大人気ないと言われようと、この感情は中々思うようにはいかないものだ。

「政宗様?」

政宗の心境の変化に目敏く気づいた紅が、彼を仰ぎ見る。
馬上の彼の目は遠く、逆光の所為でその心が見えない。
更に近くで見ようと一歩近付いた彼女は、手綱を放した政宗の手に引き寄せられる。
そして、腕に負荷をかけないよう腰を抱かれ、一気に馬上へと引き上げられた。

「な、何をするんですか!」

舌を噛みますよ!とどこかずれた不満の声を漏らす彼女を自身の前へと座らせる。
真っ直ぐに自分を見つめてくる彼女の眼差しに、ざわついた心が落ち着いていく。
一方、同じく真っ直ぐな視線を受けている彼女もまた、彼の眼に安心させられていた。
目が見えなくても、考えていることくらいはわかる。
けれど、その目を見て考えを読むこと自体が大切だった。

「…ちゃんと、合わせられる顔になったみてぇだな?」
「…申し訳ありませんでした。私事で、我侭を…」
「お前の我侭くらいは可愛いもんだろ」

気にすんな、と頬を撫でられる。
その感覚に目を細めると、紅は思い出したように口を開いた。

「先の報告をしなければなりませんね。城に戻り次第、すぐに―――」
「いや、帰りに聞く」
「は?」

帰りに、馬を駆りながら報告をしろと?
蹄の音に掻き消されないような声で報告しなければならないのかと目を丸くする紅。
そんな彼女の心中を他所に、政宗が顔を動かした。

「氷景。虎吉を連れて帰って来い」
「了解、筆頭」

いつの間にか来ていた氷景が政宗の声に答える。
その手には虎吉の手綱が握られていた。

「政宗様、あの」
「適当に掴まってろよ」

紅の声を遮る様にして、問答無用で手綱を握りなおす。
は!と言う声と共に愛馬の腹を蹴り、勢い良く馬を走り出させる彼。
途端に揺れだす馬上で、とりあえず彼の陣羽織を握った彼女は、蹄にかき消されぬ声を上げる。

「政宗様!自分で帰れます!」
「我侭を聞いてやったんだ。俺の好きにさせろよ!」

そんな楽しげな声が返ってきて、紅は思わず口を噤んだ。
馬には負担をかけるけれど、彼がこう言うならば仕方ない。
即座に反抗を諦めた紅は、彼の邪魔にならないようにと姿勢を変え、その身を委ねることにした。

09.03.08