廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 135 --
上杉の城が見えてきた所で、紅が顔を上げた。
彼女が視線を向けた先に氷景が姿を現す。
「姫さん」
「ご苦労様、氷景」
「上杉謙信から、了承の返事を貰ってきた。正面から入れてもらえるだろ」
聞き入れてもらえないと言うことはないだろうと思っていた。
けれど、改めて彼の口からそう聞かされると、やはり安堵がこみ上げる。
ありがとう、と微笑めば、彼は得意げに口角を持ち上げた。
「かすがを助けたのか?」
「ええ、成り行きで」
「ついでに薬を貰う約束をつけておけばいいのに」
「そこまではしていないけれど、貸しにはしてあるわよ。大丈夫、彼女は…きっと、拒んだりしない」
会ったばかりで何も知らないと言っても過言ではないけれど、何故かそう思う。
人を見る目にはある程度の自信を持っているからこそ、自分の勘を信じることが出来た。
門を潜ってから虎吉を下り、かすがが連れて来た兵に馬を預ける。
氷景がそこにいることに気付いた時の彼女の眼と言ったら―――
視線だけで、一人と言わず十人くらいは殺せそうだと思うほどに鋭かった。
しかし、紅がいたからなのか、彼女は氷景に対しては何も言わず、こっちだ、と城へと誘導する。
寧ろ氷景が居ない者として扱おうとしている事は明らかで、彼は思わず苦笑を浮かべた。
「完全に空気扱いだな」
「氷景。あなたの悪ふざけが過ぎるからでしょう?」
窘めるようにそう言うと、彼は心外だ、と呟いた。
その口調も少しばかり楽しんでいるように聞こえ、紅は溜め息を吐き出す。
そして、歩いていくかすがの背中を追うように、足を進めだした。
二人の背中を視界に捉えつつ、氷景は肩を竦める。
かずががあそこで紅を貶したりしなければ、氷景は彼女に何かをするつもりはなかったのだ。
彼女を撒いて上杉の元へと到着することなど、彼にとっては容易い事だ。
普段は飄々としていてそれを感じさせないのだが、彼はとても優秀な忍なのだ。
感情に流されやすいかすがよりは、遥かに。
氷景にとって、罵倒や文句の声は大した障害ではない。
寧ろその広い心をもってすれば、聞き流すには十分すぎる。
彼にとって重要なものは自分ではない。
主である紅自身であり、そして彼女の命令だ。
かすがは、氷景の逆鱗に触れたと言っても間違いではない。
そう考えるならば、今回はかすがの落ち度であり、この状況も致し方ないとしか言えないだろう。
「悪ふざけなんかじゃないさ」
紅が、そう言った冗談を嫌うことくらいは百も承知だ。
小さく笑い、彼女らを追うように歩き出す。
ふわり、と細い三つ編みが揺れた。
紅は政宗の正室だが、一国を統べているわけではない。
政宗と同じ立場にある上杉謙信よりは位が下であることを理解し、深く頭を下げる。
「奥州筆頭、伊達政宗が妻、紅と申します。
この度はお目通りを了承していただき、誠にありがとうございました」
初めまして、の口上を省いたのは、彼と会うのが初めてではないからだ。
しかし、前に会ったのは戦場。
挨拶など出来るはずもない。
「顔をお上げなさい」
静かな声が聞こえ、紅はそっと頭を持ち上げた。
ゆっくりと視線を声の方へと向け、改めて謙信の顔を見る。
一国を統べる者としては、少し線が細いと感じた。
しかし、氷のような儚さの中に見える、ある種の鋭さ。
力で物事を推し進められる強さだけが、すべてではないのだと―――そう思わせる人だった。
「久しいですね。戦姫」
「どうぞ、紅、とお呼びください。戦姫と言うのは仮名にすぎませんので」
紅の答えに、謙信は薄く微笑む。
清廉な、と表現するかすがの気持ちがわかるような気がした。
「此度は、私の忍を助けてくれたようですね。感謝します」
「いえ…こちらこそ、私の忍が上杉様の領地にて無礼を働き、申し訳なく思います」
「構いませんよ。優秀な忍との出会いは、私の剣にとっても有益なものとなるでしょう」
そうですね、かすが?
確認するように、後ろに控えている彼女に声をかける。
謙信の声が全てである彼女は、はい、と短く返事をした。
いつものようにふやけた様な声で答えられなかった理由は、複雑な心中にある。
そんな心中を知ってか知らずか、謙信は、さて、と話題を改めた。
「私に頼みたいことがあるそうですね。聞きましょう」
「…私の恩人が、命の危機に晒されています。それを救うため、彼女の力をお借りしたく存じます」
「その一人のために、同盟国ではない越後までやってきたと言うのですか。
一国の主の妻の行動としては、些か自分本位ですね」
たった一人の為に動くべきではない。
そう窘められているのだと気付き、紅は唇を結んだ。
「…上杉様ならば、決して人道に背く事はなさらないと…信じて、参りました」
「……………」
「私は、初めからこの場所に居た訳ではありません。出会ってきた全ての人のお蔭で、ここに立っています。
守れるものならば守りたい。救えるものならば、救いたい―――そう、思っています」
全てを救うことなど出来はしない。
守ると言いながら、誰かを斬る自分にそんな権利があるのか。
常に、矛盾を感じながらも、守りたいものの為に、自分自身を見失わないよう努めている。
紅にできる事はそれくらいしかないのだ。
「…良い目です」
少しの間を置き、謙信が微笑んだ。
「上に立つ者は、下にある民草の存在を忘れてはなりません。
己が手の届く範囲を守ろうとするその驕らぬ姿勢…気に入りました。―――良いでしょう」
一度深く頷いた彼は、首を振り向かせた。
かすが、と短く名を呼ばれた彼女が、一歩前へと進み出る。
「頼まれてくれますね?」
「…謙信様のご命令とあれば、このかすが…例え地の果てであろうと」
「では、行きなさい。出来る限りを尽くして戻るのですよ」
「はい」
頭を垂れるかすがを見て、紅が氷景に目配せをする。
彼も一度頷くと、かすがを見てから姿を消した。
それを追うようにして彼女もその場から消える。
一瞬だけあの二人を一緒にすることに対する不安が胸を過ぎったけれど、大丈夫だろう、と思い直した。
「紅殿には部屋を用意させましょう」
「いいえ、お心遣いは大変ありがたいのですが…」
「顔色が優れませんよ。女子が無理をするものではありません」
優しいのに、どこか有無を言わさぬ声色だ。
暫し沈黙した紅は、やがて静かに頭を下げた。
「お世話になります」
紅の返事に、謙信は満足げな表情を浮かべた。
08.12.15