廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

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ふと、気配を感じた。
隠しているわけではないようだが、どこか焦ったようなそれ。
紅は少しだけ悩み、やがて虎吉の手綱を握る手に力を込める。
それを右へと動かせば、彼は躊躇いなく道を逸れてくれた。

「ごめんね、少し歩きにくいだろうけれど」

獣道と呼ぶに相応しいそこを歩く。
気配の主を警戒して、紅の利き腕は小太刀の一つへと添えられていた。
覚えのある気配が、こんな所で留まって何をしているのか。
千里眼を持っているわけではない紅に、その人物の行動を知る術はない。
ただ、そこにいるという事だけはわかる。
ガサリ、と音を立て、そこへと到着した。

「…!お前は…ッ!!」

この声は紅の物ではない。
落ちてきた声はどこか焦っていて、紅の接近に気付いていなかったことは明らかだった。
視覚として彼女を捉え、初めてその存在に気付いたのだろう。
そこまで真剣に気配を消した覚えはないのだが…どうやら、相当焦っていたらしい。
木に縛り付けられたまま構えることも出来ない彼女を見れば、そのことは変えようのない事実のようだった。

「あなたは…上杉の忍ね。何度か、奥州に足を運んでいた」

こんな所で何を?と問う必要はないだろう。
ここはすでに上杉の領内。
上杉謙信直属の忍である彼女、かすがが見回っていても何も不思議なことはないのだ。
唯一つ、彼女が木の幹に縛り付けられていることを除けば。
紅は、彼女を縛り付けている物を見上げる。
そして、それが己の忍の道具の一つだということに気付く。
穏便に事を済ませられなかったのか、済ませようとしなかったのか。
何かを怒鳴っているかすがを見れば前者の可能性が高いだろう。

「このまま放っていくこともできるけれど…」

流石に、人としてどうだろう、と思う。
言いたいことを怒鳴り散らし、ハァハァと呼吸を乱しつつ一旦口を止めるかすが。
落ち着いたとは言えないけれど、とりあえず声をかけてみることにする。

「一応、聞くけれど…氷景が原因………で間違いないようね」

氷景の名前を出した途端に、ギンッと鋭い目で睨みつけられた。
なるほど、予想に違わず彼が地雷らしい。

「助けた方がいい?」
「敵の助けなど必要ない!!」

即答する彼女に、思わず溜め息が零れる。
少なくとも、自力で脱出できるならばこんな所で標本の如く大人しく縛り付けられては居ないだろう。
そして、氷景がここを通って、随分と時間が経っている。
未だにこの場にいると言う事は、仲間も彼女がここに居ることに気付いていないのだ。
その二点から考えて、彼女が仲間の手を借りて脱出するには、ここから相当時間が必要になる。
そして、恐らく…彼女は、仲間にこんな姿を見られることは屈辱でならないだろう。
このプライドの高さから考えて、まず間違いない。

「………仕方ない、か」

ここは一つ。
彼女にとっては効果絶大であろう提案をしてみることにしよう。

「なら、このまま放っていくわね。上杉様の所に向かう途中だから」
「ま、待てッ!!」

虎吉の手綱を引こうとしたところで、制止の声がかかった。
引き止めないはずがないと思っていたけれど、少しだけほっと安堵する。

「何か?」
「謙信様に近付くことは許さない!」
「許さないと言われても…私は、用があって越後に来ているから」

会わないわけには行かないわ。
はっきりとそう告げる彼女は、今にも馬を走らせそうな雰囲気だ。
かすがはグッと唇を噛み締め、自分のすべき行動を考える。
考えるまでもないのだが―――いや、しかし。

「…貸しにしておく、と言うのはどうかしら」

紅はかすがの心中を察し、手早く片付けようとそう提案する。

「貸し?」
「ええ。あなたはすぐにでも脱出して、上杉様の元へと帰りたい。私も、早く上杉様の元へと向かいたい。
目的場所は同じなのだから、助けられることが気になるなら…貸しておくわ」

こうすることで、助けられることへの抵抗を小さくしておく。
口を噤む彼女に、もう一押しだと悟った。

「私は雪耶家の当主としてここにいる。正式に謁見を申し込んでいるのよ。
今頃は、氷景が上杉様の元へと届けてくれているはず」
「…謙信様に、何の用だ…?」
「…とても簡単な、けれど大切なお願い事を」

恐らく、氷景が言っていた忍はかすがの事だ。
この件に関係しているのは彼女なのだから、薬を渡すことを条件にすればいい。
しかし、紅はあえてそれをしなかった。
少しだけ、彼女と対等に話をしてみたいと思ったのかもしれない。

「………謙信様のお命を狙いに来たわけでは…ないのだな?」
「違うわ。我が主に誓って」
「………その恩、借りておく」

現実的な高低差だけではなく、感情的にも随分と高い位置からの物言いだが―――これが、彼女の精一杯か。
プライドの高い彼女が敵に助けられることに納得しただけでも、良しとしておかなければならないのだろう。
紅は懐から短刀を取り出し、鞘から抜き取る。
手の平に添えるように構えたそれを引き、腕を振る勢いで投げた。
タンッと軽い音を立てて木の幹へと突き刺さったそれは、寸分狂うことなく銀色の糸を切り裂いている。
かすがを拘束する糸がバラリ、と緩んだ。
自分を縛り付けていた糸の束を見下ろすかすがの表情は、どこか悔しげだ。
暫し沈黙していた彼女だが、短刀を引き抜いて木の枝から下り立つ。
地面へと音もなく着地した彼女は、膝を付いて紅へとそれを差し出した。
本来であれば、これが本来のあるべき形だ。
上杉に仕える身であるかすがは忍。
主の客人である可能性の高い紅は、伊達の、しかも身分の高い者だ。
かすがに、紅を怒鳴るという行為は、本来であれば許されていない。
尤も、紅がそれを気にして上杉に言いつけるようなことはないけれど。

「ありがとう」

馬上から、差し出された短刀を受け取る。
木屑を払ってから鞘へとそれを戻し、懐へとしまいこんだ。
それを見届け、かすがはくるりと踵を返す。
タンと地面を蹴ってからの移動速度は速い。
けれど、虎吉が振り切られるほどの速度ではなかった。
クスリと微笑んでから、文字通り道草を食らって時間を潰していた虎吉の背を撫でる。

「行きましょうか、虎吉」

少し強めに腹を蹴れば、彼は軽快な足取りで走り出した。

08.11.16