廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
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「それにしても…あなたがそこまで嫌がるなんて。どんな相手なのか、私も見てみたいわ」
佐助の気配が遠のき、やがて感じ取れなくなった。
それと同時に、紅はそう呟く。
彼女の言葉に、氷景ははぁ、と長い溜め息を吐き出した。
「越後の忍だ。前に少し話さなかったか?」
「越後…あぁ、上杉謙信の所の」
戦場で顔を合わせた、清廉な越後の武士を思い出す。
酔狂なほどに上杉を敬愛して止まぬくノ一。
「惚れた上杉にはとことん甘いが、その他の人間には痛烈な女だ。平気で毒を吐きやがる」
そう言って舌を打つ氷景に、よほど苦手なのだなと感じた。
ここまで感情を露にする彼も珍しい。
「…大変なことを頼んでしまった?」
「………他ならぬ主の頼みだ。嫌とは言わねぇよ」
「そう。………ねぇ、上杉謙信には忠実なのよね?」
確認するようにそう質問する。
すると、氷景は「呆れるほどにな」と答えた。
「それなら、彼から薬を分けてもらえるように頼めないかしら」
「俺が上杉に近づこうとした時点で、苦無の雨が降る。あいつを出し抜くぐらいわけはねぇが…面倒だ」
「正式な使者ならば、そう邪見にも出来ないでしょ?」
にこりと微笑んだ紅に、彼女の思惑を理解してしまった氷景。
思わず口元を引きつらせた彼に、彼女自身も、己の考えが伝わったことを悟る。
「私より一足先に越後に赴いて、文を届けてくれる?」
「……………御意」
悩みに悩んだ末、彼女に直接頼むよりは可能性があるだろうと踏んだ。
頭を垂れる氷景に、紅はいそいそと手紙を書く準備をする。
「風呂に入りたいんじゃなかったのか?」
「入りたいけれど、文を書いてからでも遅くはないでしょう?」
「…いや、遅いだろ。ただでさえ筆頭への報告がまだなんだろ?」
氷景にそう言われ、紅の手がぴたりと止まる。
まさかとは思うけれど、忘れていたのだろうか。
彼女にしては珍しい状況に、氷景は軽く目を見開いた。
「…氷景」
「ん?」
「私は、ちゃんと笑えている?政宗様の前に出ても、気付かれない顔をしている?」
出したばかりの真新しい紙を机の上に置き、彼女はそう呟いた。
その表情は、先ほどまでのものとは打って変わり、力ないものだ。
「姫さん…」
「私の所為で、あの心根の優しい人を傷つけてしまった。…気にせずにはいられないの」
でも、と静かに続ける。
「気にしてばかりはいられない。可能性があるのなら、それに賭けないと。だから…政宗様には、会えません」
そう言った彼女に、何故、とは問えなかった。
彼女が全ての重荷を下ろし、感情を露にできる場所は、政宗の元だけなのだろう。
今彼に会ってしまえば、必死に繋いでいる糸がプツリと切れてしまう。
それは、彼女自身が誰よりも理解している。
「すぐに帰ってきます。ですから、その時は…」
氷景は、そのとき初めて彼女の言葉が自分に向けてのものではないことに気付く。
同時に、自分でも注意しなければ気付かないほどに巧妙に隠された気配を掴んだ。
いつからそこにいたのかはわからないけれど…襖の向こうに、居る。
足音もなく遠ざかる気配。
じっと襖の方を見つめる紅の目には、その背中が映りこんでいるのだろうか。
手紙を書き終えてから風呂で汗を流し、着物を着替える。
先ほどまで走らせた虎吉を再び走らせるのは可愛そうかと思ったけれど、彼は気にしていないらしい。
馬屋から出された彼は、悠々とした様子で手綱を引く兵に連れられて紅の元へと歩いてくる。
「ごめんね、虎吉…。疲れてるだろうけど、越後までよろしく」
彼女の言葉に答えるように、虎吉はその長い顔を彼女の頬へと摺り寄せた。
「私も出発するから、先に上杉殿の所に持って行っておいて」
頼んだわ、と氷景に文を手渡す。
それを受け取って懐へと収めると、氷景は凍雲を呼んでその足に掴まり、一足先に奥州を後にした。
紅は彼を見送ってから手綱を受け取り、鐙に足をかけてひょいと鞍に跨る。
「紅様、お気をつけください。まだ帰って来たばかりで疲れが取れていないのは紅様も同じなのですから…」
「ええ、ありがとう。でも、事は一刻を争うから…。それより、暁斗はどうなった?」
ふと、紅は表情に陰を落としてそう問いかける。
虎吉の手綱を引いてきた兵士は、その言葉に顔を俯かせた。
「…一命は取り留めましたが、利き腕は…」
「…そう。今は何も考えず、傷を癒すようにと」
紅の言葉に、はい、と頷く兵士。
彼もまた、同僚の負傷に心を痛めているのだろう。
その様子に唇を噛み締め、頭を切り替えねばと思う。
救えるかもしれない命を、優先しなければならない。
「留守は任せたわ」
「はい。紅様もお気をつけて」
その言葉に強く頷いてから、紅は虎吉を走り出させた。
「紅様が越後に向かったのか」
紅の背中が見えなくなったところで、そんな声が聞こえた。
バッと振り向いた兵士の目に、どこか呆れた風な小十郎が入り込んでくる。
「小十郎様…。紅様は大丈夫でしょうか?」
「紅様も、言っても止まらんお方だ。だが、ご自分の限界くらいは弁えておられるだろう」
無茶はするけれど、無理はしないはずだ。
確信は持てないのでそう信じるしかないけれど。
「まったく…。そう言うところは政宗様と同じだ」
決して自分を曲げようとせず、一度決めたことを通すためならば己の身さえ省みない。
けれど、そんな風に前を向いて歩いていく政宗だからこそ、その背中についていこうと思うのだろう。
彼女もまた、そんな人間の一人なのかもしれない。
「しかし、上杉の領地でもしものことがあれば…」
「…幸い、越後と目立った戦はしていない。紅様が単独で訪れる分には、問題はないだろう」
相手の思考を完全に読み取ることなど出来ないのだから、恐らく、と言う程度でしかない。
しかし、彼女の人柄がそれを信じさせる。
お忍びと称して何度か信濃へと赴いていることを知っている小十郎は、見えない紅の背中を捜す。
そして、小さき息を吐き出してから城の中へと戻っていった。
途中、見上げた窓の所に人影を見つけ、口角を持ち上げる小十郎。
「少しは大人になられましたな、政宗様」
自らも飛び出すことなく、何も言わずに送り出した彼を思い、小十郎は小さくそう呟いた。
08.09.21