廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
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「氷景…。術の用意を」
静かに響いた紅の声に、悠希が肩を震わせた。
そして、そのまま紅と愛姫の間に身体を滑り込ませる。
「悠希…」
「…駄目。記憶を消したら、あんたが後悔する。それがわかってるのに、そんなことはさせられない」
真剣な表情でそう言う悠希に、紅は沈黙する。
紅の意思が変わらないことは、その様子からも明らかだった。
けれど…彼女の友人として、これを許すわけにはいかないのだ。
「…楓!」
楓はいる?と声を上げる。
程なくして、失礼します、と言う声の後に襖が開かれ、楓がその場に控えた。
「悠希を客室に連れて行って。それから医者を呼んで、体調を診てもらえるように手配してほしいの」
「承知いたしました。悠希様、こちらへ」
「紅!?」
さぁ、と促され、悠希は紅に向けて声を上げる。
しかし、彼女はその声に振り向こうとはしなかった。
それが彼女の拒絶に見えて、悠希はそれ以上の言葉を失う。
後ろ髪を惹かれる思いと共に、連れられるまま部屋を後にした。
「…いいのか?」
「彼女まで背負う必要はないことです」
消してしまうものの大きさ―――それを背負うのは、自分だけでいい。
政宗は、覚悟を決めてしまった紅を見つめながら、僅かに表情を歪める。
「姫様に…何をなさるおつもりなのですか…?」
畳の上に座り込んでしまったまま、愛姫の侍女がそう問いかける。
紅はゆっくりと歩き、彼女の前に膝を着いた。
「氷景に関する記憶を消します」
「そんな…っ!」
「それが、私に刀を向けた愛姫への処分です。反論は…許しません」
確かに、愛姫には何よりも辛い処分だろう。
けれど…彼女の思いの深さとその長さを知っている侍女には、とてもではないが受け入れられない。
「お願いです、それだけは…!」
「彼女の精神はもう限界です。これ以上耐えられるほどに、彼女は強くはない」
「でも…それはあまりに惨い仕打ちです!」
涙ながらにそう訴える彼女。
紅は今すぐにでも取り消してしまいそうな気持ちをぐっと堪え、首を振った。
「―――…構いませんわ…」
紅が何かを言おうとしたその時。
不意に聞こえた声に、その場の全員がそちらを向いた。
いつの間にか目を覚ましていたらしい愛姫が、静かに身体を起こす。
「狂気に囚われるのも、紅様を憎むのも…疲れました」
「姫様…」
「私の思いが皆様の為にならないものならば、捨てるのが一番なのでしょう。けれど、私にはそれは出来ない。
…消していただけるならば、その処分…謹んでお受けいたします」
無理をしているのは誰の目に見ても明らかだった。
しかし、彼女を止める者は、この場にはいない。
彼女の侍女ですら、何も言えなかった。
「ひとつだけ…ひとつだけ、叶うのならば…。少しの時間で構いません。氷景様と二人に…」
まっすぐに自分を見つめてくる愛姫の言葉に、氷景は何も答えなかった。
政宗はちらりと彼を一瞥し、それから紅に手を差し出す。
立ち上がったりすると、まだ少しふらついてしまうことに気づいていたのだろう。
紅は彼の手を借りて立ち上がり、そのまま部屋を出るべく歩く。
その後ろから、政宗、侍女と続いた。
侍女は襖のところで一度振り向き、ゆっくりとそれを閉ざす。
その頬はとめどなく溢れる涙に濡れていた。
三人が去ったその場は、氷景と愛姫の二人だけになる。
「…申し訳ありません。氷景様は…私の顔など見たくはないとお思いでしょうけれど…これ限りにしますから…」
「俺は、あなた自身を憎むことも嫌うこともない。ただ…主人を傷つけようとした事は許せない」
「………刀を受け取ったのは私自身の意思です。それを否定するつもりはありません」
受け取ってしまったことも、それを握ってしまったことも。
全ては、自分の弱さが原因だ。
愛していても、どうにもならないことはある。
愛姫は、それを、身をもって痛感した。
「城に帰り、父上が仰っていた縁談を受けることにします」
「……そうか」
「氷景様。お会いするのは、きっとこれが最後です。
どうか…最後にひとつだけ、私の願いを叶えていただけませんか?」
彼女の声は震えていた。
氷景は、何も言わず、彼女を見下ろす。
「一度だけで構いません。一度だけ…抱きしめてほしいのです」
そう言って、彼女は瞼を伏せる。
氷景は彼女を見つめ、本当に小さく息を吐き出した。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
「我、霞桜家に伝わる秘術を行わんとする者。姓を霞桜、名を氷景」
淡々とした声でそう紡ぎ出す。
その声が聞こえると、愛姫はぱっと目を見開いた。
それから、悲しげに微笑む。
最後の願いだとしても、彼は自分を抱きしめてはくれないのか。
しかし、そんな切なさの中に、安堵の気持ちがあるのも、また事実だった。
下手に同情され、希望でも抱いてしまったら…これからの彼の行動を、泣きついてでも止めてしまいそうだ。
「…ありがとうございます、氷景様…」
「氷景に関わる全ての記憶を抹消する」
彼が愛姫に触れたのは、この指先ひとつだった。
トン、と触れた指先から何かが全身を走り、その場に崩れ落ちる愛姫。
最後の一粒の涙が頬を零れ落ち、そこから畳の上へと落ちた。
意識を失った彼女を寝かせ、その顔を見下ろす。
「…闇を生きるこんな俺を慕ってくれたことは、感謝してる」
主人の影として闇の世界を生きていく忍。
時には血生臭い事も任務として受け入れる自分たち。
そんな自分を、ここまで慕ってくれる者が現れるとは思っていなかった。
その感情は恋愛のそれではなかったけれど、愛姫に向けられていた思いも、確かに存在したのだ。
彼女の気持ちを受け入れることが出来ない以上、それを伝えるつもりもなかったけれど。
氷景は髪を結わえていた紐を解く。
そして、それで彼女の髪を一房結わえた。
「愛してはいなかった。だが…あんたの事は、嫌いじゃなかった」
本人には聞こえるはずのない言葉を呟いた。
08.04.23