廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
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襖へと視線を向けたまま、紅は「政宗様」と紡ぐ。
意味が分からず首を傾げた悠希の視界で、紅が見つめていた襖が動いた。
「…怪我はないか?」
「かすり傷です」
ない、と嘘はつかない。
状況を見れば一目瞭然なのだから、嘘をつく理由がなかったことも確かだ。
部屋の中へと進んできた政宗は、紅の手を取った。
掌と言うよりは、人差し指の付け根の辺りに一筋の傷が出来ている。
既に血は止まっているのか、少しだけ乾いたそれが引きつったように波打っていた。
「何故止めた?」
「事が大きくなりますから」
「…それでお前が怪我をして解決か?俺はそんな解決を望んでねぇ」
少し怒っているように見えるのは、紅を心配しての事だ。
それが嬉しくて、紅は小さく微笑んだまま「すみません」と謝罪を口に出す。
「止めたって…筆頭、ずっとそこに?」
今まで沈黙して二人の遣り取りを見ていた悠希が控えめにそう問いかける。
そんな彼女の言葉に、彼は頷いた。
「ずっといたぜ?踏み込もうとした時に、紅に止められたんだがな」
その言葉に、悠希はそれがいつだったのか、と記憶を探る。
順番に先ほどの光景を思い出していく中で、唯一止めていると思しき台詞に思い当たった。
―――来ないで。
一歩近づいてきた愛姫に向けて紡いだ言葉だと思い込んでいた。
紅の後ろにいた悠希には、彼女がどこを見ていたのかはわかっていなかったと言う事も、その理由の一つだ。
この時代に来て気配に敏感になったといっていたから、紅は気付いていたのだろう。
悠希の考えがそこまで至った所で、沈黙していた氷景が動き出す。
意識を失っている愛姫の傍らに膝をついた彼は、彼女の額に手を伸ばした。
紅から見えている彼は無表情で、それが言葉に出来ない不安を増幅させる。
彼の指先が額に触れる直前、紅は耐え切れず声を上げた。
「待って。何を…するつもり?」
「術により記憶を消す」
迷いなく答えた氷景に、紅はその言葉の意味を理解できなかった。
しかし、いつまでも混乱しているような彼女ではない。
ハッと我に返った後は、慌てた様子で彼に詰め寄る。
「駄目よ!記憶を消すなんて…精神に異常をきたす可能性があるわ」
「それしかこいつを救う方法はない!」
強い声に、ビクリと肩を震わせる紅。
思わず言葉を失う彼女の肩を、政宗が抱き寄せた。
「…止めるな、紅」
「政宗様…駄目です。彼女はそんな事を望んでいない…っ」
狂おしいほどに、誰かを殺したいと思ってしまうほどに愛している人を忘れたいはずがない。
紅は止めて欲しいという思いを眼差しに乗せ、政宗を見上げる。
だが、彼は氷景を止めようとはしなかった。
「氷景、やめて。そんな事をしたら、本当に壊れ―――」
言葉の途中で、ぐらりと視界が揺れた。
平衡感覚を失い、立っていられなくなってしまう。
紅の変化に気付いた政宗が即座に彼女を支えた為に、畳に伏すという事はなかった。
紅の手から短刀が滑り落ち、倒れこんだ愛姫の手の近くでゴトンと音を立てる。
「紅!」
受け止めた政宗が急いたように彼女を呼んだ。
紅はそれに答える余裕すら持たず、ぐるぐると回る視界を遮るように目を閉じる。
政宗の声に重なるように、悠希の心配そうな声が届いた。
「筆頭。恐らく神経系の薬が塗られていたんだ。暫く視界を遮って、これを舐めさせれば治る」
そう言って、氷景が懐から小さな瓶を取り出して政宗に差し出した。
彼の片手は先ほどの短刀を握っている。
紅が倒れてすぐに、その短刀を調べて何が使われていたのかを探ったのだろう。
役目を果たした短刀を畳に向かって放り投げ、氷景は紅を見つめた。
「どの程度舐めさせればいい?」
「指先で一掬い」
政宗は氷景の答えを聞くと、片手で紅の目元を覆う。
そして、もう片方の手で瓶から薬を掬い、彼女の唇を押し開いて舌に薬を塗りつけた。
手の中で彼女が瞼を開こうとしている事に気付き、少し強めに彼女の瞼を押さえ込む。
「開くな。………………あのな。開くなとは言ったが、そんな全力で閉じてる必要はないぞ」
瞼の上に手を乗せているお蔭か、その下の動きがよくわかる。
開くなと言われ、条件反射的にギュッと目を閉じてしまった紅に、彼は苦笑した。
彼女の舌が政宗の指先をなぞる。
舌に痺れるような苦さを感じるが、最後までそれを舐めきった。
口の中から苦さが消えた頃には、ぐらぐらしていた頭の揺れが治まって来る。
紅は心中で、流石は忍の持っている薬だな、と感心していた。
紅の様子が落ち着いてきた頃、それを見越したように部屋の外が騒がしくなってきた。
何事だろうか、と思い、全員がそちらに意識を向ける。
もう大丈夫そうだと判断した紅は、自分の手で目を覆ってくれていた政宗の手を退け、身体を起こした。
「失礼いたします!」
「待っ…!」
紅が止める間もなく、スパーン、と勢いよく襖が開かれた。
そこに現れたのは、武器を手にした家臣十数名。
紅の家臣もいれば、政宗の家臣も居る。
突然の乱入に驚く紅たちを他所に、彼らは室内の状況を見回し、即座に動いた。
部屋の中へと進んだ彼らが、愛姫を拘束する。
その様子に、紅が慌てたように声を掛けた。
「やめなさい!何をしているの!?」
「紅様、ご無事で…はないようですね。医者を呼べ!紅様が怪我をしておられる!」
「やめなさいと言っているの!医者は後で構わないから、私の言葉に答えなさい!」
すぐさま踵を返そうとした一人にそう声をかけ、紅は彼らを一瞥する。
その表情は険しい。
けれど、彼らもまた、それに臆す事無く、膝を着いた。
「騒ぎを聞きつけ、部屋に駆けつけたところ、姫の侍女が部屋の前で不審な行動をしておりました」
「この者を問い詰めた所、姫が刀を所持して紅様の元を訪れた事を吐きました」
既に縄により拘束された愛姫の侍女を前へと押し出す。
彼女は顔を俯けたままだった顔を上げ、紅を睨みつけた。
「全て…あなたの所為です!姫様があそこまで追い詰められるのも、全て!」
「……っそれは…」
「姫様はこれ以上あなたを憎みたくはないと、ご自身でその命を絶とうとなさいました。
私はその覚悟がおありなら、せめて悔いの残らぬようにとこの刀を姫様にお渡ししたのです!」
紅は彼女の言葉に無言で立ち上がった。
まだ薬が抜け切っていないのか、足元がふわふわしているような気がする。
けれど、それを感じさせない足取りで彼女に近づき、勢いよく手を振り上げた。
パンッと乾いた音が響く。
「何故止めなかったんですか。一番近くに居たあなたが。
彼女が私を殺せる筈がないでしょう。私は…愛姫を殺す事もできたんですよ!?」
「―――っ」
「狂気に脅かされる事を恐れている者に刀を手渡すなど、その背中を押しているも同然」
言葉を詰まらせる彼女。
紅はそれを見て、それ以上の言葉を飲み込んだ。
そして、短く深い息を零す。
「この件に関しては、私が処理するわ。あなた達は下がりなさい」
黙り込んで状況を見守っていた家臣たちにそう声を掛ける。
彼らは、その命令を聞いていいのかと困惑した。
彼女がこの姫やその侍女にどうにかされると言う事はまずない。
実力からもそれはよくわかっているのだが、彼らは彼女を守らなければならない立場にある。
「…下がっていい。何かあれば、俺がいる」
助け船を出したのは政宗だ。
彼にも下がるように言われれば、それ以上ここに留まる事は許されない。
軽く頭を下げ、後ろ髪を引かれる様にして一人ずつ出て行く。
そうして、部屋の中は当事者だけになった。
「―――…氷景。あなたの言葉の意味が理解できたわ」
紅の声に、彼は何も言わずに頷いた。
彼女はその表情に影を宿しつつ、続ける。
「このままでは―――彼女の心も身体も…どちらも助けられない」
ギリギリの所まで追い詰められた心。
一国の主の正妻を傷つけてしまった彼女自身。
その両方を救う手立ては、最早残されてはいない。
苦しげに眉を寄せ、紅は呟いた。
「氷景…。術の用意を」
08.04.07