廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
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鋭く光を反射するその刀身。
いつも使っているような長さではないけれど、それでも使う者によっては十分な凶器となる。
それに、たとえ素人が扱ったとしても、場所によっては致命傷を残す事だって可能だ。
愛姫の手に光るそれは、正しく人を傷つける為の道具。
「…こんなものを持ったのは初めてです」
蝶よ華よと大切に育てられてきた。
戦を知ることもなく、平和な屋敷の奥で生きてきた彼女にとって、それを握る機会などない。
「愛姫」
「斬る為の道具…何故か、心が安らぎます」
紅は愛姫の言葉に軽く眉を寄せた。
刃物は時として人を虜にする力を持っている。
それに囚われ、狂人と化した者が、今までにどれだけ居るのだろうか。
自分の心が不安定でよりどころを探している時、それに触れるのは危険だ。
それは、時として己を優位に立たせるものだから。
鋭くも甘い誘惑は、人間にとっては魅力的に見えてしまうから。
「紅…」
心配そうな悠希の声が耳に届いた。
くい、と後ろから着物を引っ張られる。
刀に慣れていない彼女は、愛姫の狂気にも似たそれに怯えを見せていた。
着物を掴む悠希の手に自分のそれを重ねる。
長引かせるのは、悠希にとっても腹の子供にとっても良くない。
決心を新たに、愛姫へと意識を戻した。
「あなたは全てを手に入れて、私は全てを失いました。あなたがいなければ…思いたくないのに、そう思ってしまう」
紅が柔らかく微笑んでいるのを見れば見るほどに、自分の醜さを知ってしまう。
浅ましくもその場所に立っているのが自分だったらと…そんな夢を見てしまう。
そして、深淵の闇のような自分自身が囁いてくるのだ。
―――彼女がいなければ、そこは自分の場所だった。
「私の心はどうすれば救われますか?この想いは…どうすれば、あの方に届きますか?」
心の叫びなのだろう。
それとは対照的に、彼女は冷静な声で問いかけてくる。
「愛姫、あなたにそんなものは似合わない」
「…駄目です、紅様。私は、これを手放したら…私ではいられなくなってしまう…」
自我の崩壊が進んでいるのではと思わせるほどの愛姫。
ボロボロと零れ落ちる涙に、紅は胸を痛めた。
そして、ふと襖の方へと視線を向ける。
「―――来ないで」
一歩を踏み出した愛姫の足が止まった。
視線は既に彼女へと戻っていて、どこか険しい紅の目が彼女の動きを止める。
「刀を置きなさい、愛姫」
紅は何度もその名を口にした。
自分がその名を持つものであると忘れさせないために。
緩く頭を振る彼女に、紅は心中で舌を打つ。
そして、悠希の手を握っていた自身のそれを解いた。
引き止めるように彼女の手が追ってきたけれど、片腕で彼女の肩を押さえてそれを制する。
「愛姫。あなたはそれを握るという意味を分かっていない」
「分かっています!これがあれば…人を殺してしまう…!殺せてしまう!」
声を荒らげた彼女に、背後の悠希が息を呑むのが分かった。
出来るならば別の部屋に向かわせたいのだが、ここで悠希を動かすのは愛姫を煽りかねない。
紅はゆっくりと足を進めだした。
5歩分ほどの距離の所でも、愛姫の手が震えているのが分かる。
それでも、短刀を落とすまいと両手で握り締める彼女。
「やめなさい、愛姫。あなたには無理です」
「――――っ!あなたさえいなければ、あの方は誰のものでもない!」
最後の枷が失われた。
彼女は身体の前で握り締めるだけだった短刀を振り上げる。
「紅っ!!」
悠希の切羽詰った声が聞こえた。
紅にとって、愛姫の攻撃など赤子のお遊戯に近い。
避ける事も反撃に打って出る事も容易かった。
しかし、紅はそのどちらも選ばない。
振り上げられた勢いのままに振り下ろされてくるその腕。
紅は愛姫の手ごとその短刀を握った。
刃を押さえてしまった掌から血が流れ落ち、ポタリと畳を赤く染めた。
「分かっていないのよ。人を殺す事の重さを、あなたは知らない」
「…あ…っ」
紅の白い肌を伝う、赤色の血。
それを流させているのは、自分の持つ刀。
その事実に、愛姫の震えが酷くなった。
「人を殺すという事は、その人の残りの人生を背負うと言う事。あなたは、その重みに耐える覚悟があるの?」
「…い、や……」
「あなたが今握り締めているものは、子供の玩具じゃないのよ。覚悟を持たない者が持っていいものじゃない」
魅了されて、それに縋って生きていて良いものではない。
紅は愛姫の手を握ったまま強い目で続けた。
「放しなさい。これはあなたが振り回していいものじゃない」
ポタリ、ポタリと落ちる血が畳みのシミを広げていく。
じわじわと広がるそれが、心を侵食する闇に見えた。
愛姫は小さく何度も首を振りながら、後ろに逃げようとする。
震えが最高潮に達し、その手から短刀が滑り落ちた。
「あ…わ、私…は…」
紅がゆっくりと手の力を抜いていく。
彼女の手から逃れた愛姫の手は、その血で赤く濡れていた。
傍目から見ても分かるほどにその表情は蒼白だ。
そんな彼女の様子に表情を歪めた紅。
その時、愛姫の後ろにスタッと着地する影が見えた。
それにあわせるようにして彼女の身体が崩れ落ちる。
「…氷景…」
畳へと倒れこむ直前に愛姫を受け止めたのは、氷景だった。
彼はそのまま彼女を畳の上に横たえ、紅の前に膝を着く。
「最後まで耐える事ができませんでした。申し訳ありません」
「…構わないわ。これ以上は彼女の精神が崩壊してしまいかねないから」
傷ついた掌を見下ろし、紅はそう呟いた。
怪我をせずに彼女の攻撃を止める事はできた。
しかし、紅はあえて刃にその掌を押し当てたのだ。
最も単純に、これが人を傷つける道具であるとわからせるために。
「悠希、大丈夫?」
「だ、大丈夫。大丈夫じゃないのはあんたでしょ!?」
「平気よ。この程度、日常茶飯事だから」
真剣を使った訓練を行なえば、この程度の切り傷は本当に日常的なものだ。
痛みすらも気にならない様子の彼女に、悠希は盛大に溜め息を吐き出した。
彼女が愛姫程度にどうこうされるとは思っていない。
悠希は何度も紅が刀を持つ姿を見ているのだ。
それから考えると、愛姫の構えはあまりに拙いものだった。
しかし、それと心配する事とは話が別だ。
「お腹の子供は平気?」
「え、あぁ…。大丈夫でしょ。元親の子供がその程度でどうにかなるとは思えないし」
「それもそうね」
悠希の言葉に相槌を返しつつ、畳の上の短刀を拾い上げる。
簡素な造りのそれは、あまり重くはない。
だが、紅はこれを持つ事の重さを理解している。
自分の血を吸っている柄の部分から、刃先までを見下ろし、懐紙で刃の部分をクルクルと包んだ。
鞘に収めるのが一番なのだが、生憎目の届く範囲にそれはない。
包んだそれを手に持ったまま、紅は襖へと視線を向けた。
08.03.23