廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
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飛ぶように屋根の上を移動し、やがて目当ての部屋へとたどり着く。
そこで、氷景は軽く表情を歪めた。
彼の視線の先には、縁側に座り込んでいる愛姫の姿がある。
一度溜め息を吐き出し、ストン、と彼女の視界へと降り立った。
「氷景様…」
まるで、幻でも見たかのような表情の愛姫。
彼はそんな彼女を前にゆっくりと膝をついた。
「愛姫。夜も遅い。寝所にお戻りください」
「嫌です。折角、月夜の元でもあなた様にお会いできたと言うのに…」
目元を赤く腫らせた彼女は、切実にそう訴えた。
氷景はそんな彼女を見て、小さく首を振る。
「愛姫…俺は、忍です。仕える主のためだけに、この身の全てを使う。そして、それはあなたじゃない」
「わかっていますわ。でも、どうして…どうして、政宗様ではないのです?どうして、あの方を主に…っ」
届かない、叶わないならば、せめて男性の主の元に居てほしかった。
他の女性を主として仕え、その身の全てを捧げるなど…耐えられない。
彼は自分の思いを受け止めてはくれない。
分かっているけれど、せめて、と願ってしまう。
「…抱くべきではない想いを自覚してしまった時、あなたはどうしましたか?」
彼にそう問われ、彼女はそれを己の身に置き換えて考える。
想いを自覚した時、彼女は政宗との婚姻を受け入れた。
例えその想いが成就しなくても、せめて今よりも近いところに居られればと、ただそれだけを考えて。
「……少しでも、傍に居たいと…そう、願いましたわ」
「…そう言うことです。尤も、俺の場合は…あの方に、世界を見てしまった」
それは、ある種の本能だったのかもしれない。
彼女こそ、自分が今まで探していた人なのだと。
忍として、己の全てを懸けたいと願った。
この人こそ―――自分の世界なのだ。
どうして、皆あの人の事ばかり…。
愛姫は、ぎゅっと唇を噛んだ。
氷景の目は、あの時の政宗を思い出させる。
そこに浮かんでいる感情は違えど、その思いの深さは同じくらいだ。
「どうして?どうして、そんな、報われない想いを抱き続けるのですか!?
どうして、私では駄目なのですか?氷景様…っ」
思慕にも似たその想いを抱き続けたとしても、それが報われることはない。
彼女の心は、常に政宗だけを見つめている。
それでも、彼は彼女を選ぶと言うのか。
「あなたが俺に向ける感情と、俺があの方に向ける感情は違う。だが…その感情を向けるのも、あの方ただ一人。
俺のことは忘れてください。俺は、いつか…あの方のために、命を落とすかもしれない。それでも、満足なんです」
「そんな…嫌です!父に頼んでさしあげます。すぐにでも、忍をやめて…」
「愛姫!」
彼女の言葉を遮るように、氷景はそう声を荒らげた。
ビクリと肩を揺らし、涙に頬を濡らしたまま彼を見つめる愛姫。
「愛姫…頼む、わかってくれ。俺は、忍をやめて平穏に生きることなんて望んでいない。―――迷惑だ」
忍として生きることは、誰かに強要されたわけではない。
確かに生れ落ちた場所が忍の住まう里で、彼にはその選択肢しか用意されていなかった。
だが、里を出た今はそれ以外にも、道は無数に広がっているのだ。
誰かに仕えることもなく、平穏に生きる事だって出来る。
それでも、彼はこの道を選んだのだ。
彼女の影として生きることを、彼自身が望んでいる。
「あなたには、きっと一生理解できない感情だろう。だから、忘れてほしい」
「………出来ません。あなたを忘れることなど…。それが出来るならば、こんなにも苦しんだりしない…っ」
涙が視界を歪める。
拭いたいけれど、目を閉じた瞬間に彼が居なくなってしまうような気がして、彼女は手を握り締めた。
そんな愛姫の様子に、氷景は表情に影を落とす。
「…氷景様…。もし、紅様に向けるお心が主従によるものだけならば、どうか…。
忍をやめて欲しいとは言いません。ですから、どうか…私をお傍においてください…っ」
切なるその願いに、目を伏せる氷景。
「―――…すまない」
その言葉は拒絶以外の何物でもなかった。
重い沈黙から逃げるようにして、氷景が姿を消す。
気配など感じる事のできない愛姫は、視界から消えてしまった彼により悲しみを深くした。
「何も望まない…。あなたのお傍に居られるならば、それ以上を望んだりはしない…!」
心を向けられる事も、愛を囁かれる事も望まない。
彼が傍に居る事を許してくれるならば、それだけで十分なのだ。
しかし、そんな小さな願いすらも、許されなかった。
「あの方は望んでいなくてもお傍に居られるのに…」
首を擡げてくるのは抱いてはいけない負の感情だ。
一度加速を始めてしまったそれは、減速と言う言葉を知らない。
どんどん膨れ上がってくる感情。
押し流されそうな自身に、愛姫は怯えるようにその肩を抱いた。
08.03.06