廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 097 --
日が暮れ、伊達軍は再び川中島での一戦の前に陣を構えた川原にて休息を取った。
清涼な水の流れる川原でそれを汲み上げ、政宗の元へと戻る。
装備を解いた彼の着物は刃物によって切り裂かれているだけでなく、火傷で少し焦げているところもあった。
痛みが無いわけではないが、この程度は慣れているのだろう。
平然としている彼の代わりに、紅が眉を顰めた。
「血の止まらない傷はなさそうですね」
彼の傍らに膝を着き、上半身の着物を脱ぐのを手伝う。
太陽の下ではなかったことを密かに感謝した。
初めて見るのではないにせよ、すらりとした筋肉質の身体を見慣れているとは、到底言えない。
少しばかり頬に熱が集るのを自覚しながら、一つ一つの傷を確認する。
臓器や筋肉の動きに支障をきたすような物はなさそうだ。
その事に対して安堵すると同時に、傷の多さに表情を歪める。
顔に表れたのは後者だけで、そんな彼女の反応に政宗が苦笑した。
「そんな顔するなよ」
そう言って、彼の手が紅の髪を撫でる。
無理な事を、と思いつつも、つい表情を変化させてしまうのは条件反射とでも言うのだろうか。
「切り傷、打撲に火傷―――
どれも痕が残りそうなほどに酷いものではありませんけれど、あまり無理をなさらないでください」
心配させないで、とは言えなかった。
自分が彼の事を心配しなくなる事などありえないし、彼が心配させないような行動だけを取るとも思えない。
ふぅ、と息を吐き出して気持ちを切り替えてから、紅は口を開いた。
「幸村様との一騎討ちはご満足いただけましたか?」
「…不完全燃焼だな。やっぱり、戦の途中でやろうってのが無理な話か…」
ここぞと言う所で、彼は敬愛する武田信玄を優先してしまった。
幸村自身は少しばかり渋ったようではあったけれど。
あれでは盛り上がっていた気持ちのやり場がない。
「腕から手当てを施しましょう。少し上げてもらえますか?」
そう声を掛け、浮かせてもらった政宗の腕に負担が掛からないように畳んだ外套の上に乗せる。
川で汲み上げた水で手拭いを濡らし、丁寧に傷口を拭う。
直接傷口には触れないように周囲を拭う円を徐々に縮めていった。
着々と一つずつ手当てを済ませていき、殆どの治療が終わる。
「本当なら、川原まで移動して洗い流すのが一番ですけれど…」
「そこまでする必要はねぇよ。この程度の傷、舐めておけば…」
「政宗様!」
少し強めにそう言えば、彼は軽く肩を竦めた。
その後に「悪かった」と謝る辺り、紅の表情からその心配度を悟ったのだろう。
冷静に手当てを進めている彼女の手が、僅かに震えている。
「……紅…」
「…分かっているんです。あなたが幸村様との一騎討ちを望んでいる事は…。それでも、私は…」
彼にとっては、初めてなのだろう。
自分と同等の実力を持ち、かつ己と刀を交えられる位置に居る人物と出会ったのは。
「あなたが怪我をするのは嫌ですし、死ぬかもしれないと思うと………怖い…っ」
多くの人のこれからの未来を奪った自分に、そんな事を言う権利があるのだろうか。
彼の命は尊くて、他の者の命は軽い―――そう思っているわけではない。
けれど、人の命と言うのは必ずしも同じ重さを持っていると感じる事など、出来はしない。
誰にでも大切な人が居て、それ以外の人よりはその人の命の方を重く感じる。
人として、それはあまりに当然の感情だった。
「ごめんなさい…っ」
彼の後を追うつもりだった。
けれど、奥州と言う国を知るにつれて、紅は次第にその選択に迷いを持ち始めている。
政宗に次ぐ地位を持つ者として、彼亡き後はこの国を守らなければならないのではないか。
彼の後を追い、その責務から逃れても良いのか。
戦う術を持たない女であったならば、夫の後を追う以外の選択を取る事は出来ないかもしれない。
しかし、紅には刀を使う術があり、軍を動かすだけの人脈も統率力もある。
将を失い他国に侵略される道を辿るならば、それを防がなければならないと思った。
それでも―――
「私は、あなたを失ったら生きていけない…っ」
耐えていた感情が弾けた。
今まさに彼の腕に巻こうとしていた包帯を持つ手で顔を覆う。
戦に触れるごとに、その想いが膨れ上がっていくのを感じていた。
彼の強さは知っている。
けれど、こうして彼を傷つけられる武将が存在する事も、事実だ。
彼の命が必ずしも安全なものではない事を、紅は肌で理解した。
確実に大きくなってきていた不安は、幸村との一騎討ちを前にして弾けてしまったようだ。
「お願いです…!戦う事を楽しまないでください…っ。ご自分の命を、生きる事を忘れないで…!」
搾り出したようにそう告げる彼女に、政宗は沈黙した。
この所、彼女が何かを背負っている事は気付いていた。
あえて追求したりしなかったのは、彼女がそれを望んでいなかったから。
彼女が怖いというなど、初めてのことではなかっただろうか。
よほどの事がなければ弱音を吐かない。
だからこそ、彼女の心の叫びは真っ直ぐに政宗に届いた。
ここまで追い詰めてしまった原因が自分であると言う事が、何よりも許せない。
「紅」
名前を呼べば、彼女はゆっくりと顔を上げた。
自分へと向けられる涙に濡れた目に、心を痛める。
同時に、自分を失うことを恐れる彼女を、愛しいと思った。
「悪かった」
素直にその言葉が唇から零れ落ちる。
包帯だらけの腕で彼女を引き寄せれば、彼女はそれに抵抗せず肩口に額を寄せる。
彼女の目から零れ落ちたであろう涙が包帯を免れている素肌を滑った。
「苦しませた。こんな傷まで作らせて…」
そう言って彼は紅の手から包帯を取り上げる。
掌に深く残っている爪跡は、彼女自身の苦しみの形。
己の行動が彼女の心を傷つけ、そして身体にまで傷を作らせた。
「顔、上げろよ」
優しく声を掛けるが、間を置いて彼女が首を振る。
そんな彼女に、彼はやれやれと頬を掻いた。
動かす度に小さく伝わる痛みを無視し、彼女の頬を撫でる。
そして、それを顎の方へと伝わせ、強くない力で引き上げた。
手の動きに促される形で、紅が彼を見上げる。
彼女の涙は綺麗だと思うが、こんな風に悲しませたいわけじゃない。
親指で目尻に残った涙を拭い、腫れてしまうであろう瞼に唇を落とす。
「嫌なら、ちゃんと言えよ」
「……言えませんよ。こんな、勝手な…」
「紅、お前な…。どれだけ自分の欲が浅いか、理解できてるか?少しくらい自分の欲を出してみろ」
政宗の言葉に、紅は俯こうとする。
しかし、彼の手がそれを許さなかった。
正面から向き合うように顔を固定され、少し熱く感じる目で彼を見つめ返す。
その真っ直ぐな眼差しに、心臓が鼓動した。
「………言い切る自信はねぇんだ」
「………………」
「真田幸村を前にして、他の事を優先できる自信はない」
「そんなこと、今更言われなくても分かっています」
普段ならば軍を放り出す人ではないのだ。
周りが見えなくなってしまうことくらいは、百も承知。
「だが………努力はする。お前の声は、ちゃんと聞いてやるから」
彼はそう言うと、自身の額を紅のそれに合わせる。
瞼を伏せる彼の目と紅のそれとが絡む事はなかった。
けれど、その表情から悟る。
彼もまた、傷ついてしまった。
自分の感情の変化や行動が彼に与える影響。
それが嬉しくもあり、同時に危険であることも理解した。
でも、止まらない、止められない。
「無事で居てくれて…安心しました」
自分の顎を捉える彼の手に己のそれを重ね、紅は静かに告げる。
顎から離れたそれは、簡単に紅の手に絡まった。
指一つ一つを絡め、隙間無く掌を合わせる。
月夜の見下ろす中、じとりとした熱さを川原の風が優しく吹き流してくれる。
虫の声に耳を傾けるように、二人は静かに沈黙を保った。
07.11.14