廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 088 --

「軍神が動いた」

帰ったという言葉の後の報告の第一声。
氷景に頼んだのは関西方面の情勢の把握だったのだが、それよりも先に報告する事の意味。
それを分からないほど、甘くはない。

「狙うは甲斐の虎…で間違いはないわね」
「ああ。例の如く、川中島でぶつかりそうだな」

そう答えられて紅が目を落としたのは、川中島と書かれた文字の上。
越後と甲斐の境にあるそこは、両国が何度かぶつかり合っている場所だ。
歴史にはかなり弱かった紅ですら、知識の片隅に覚えていたくらいである。
この時代に来てから歴史に強くなったな…そんな、場違いな事を考えてしまった。

「それより、姫さん。ちょっと聞きたいんだが…」
「何?」
「ここ二日くらいで、知らねぇ気配を感じた事は?」

そう問われ、紅は記憶の引き出しを開けていく。
ここ二日辺り、と言えば氷景がまだ戻ってきていない頃。
新しい記憶から順番に遡っていった所で、紅はふと思い出す。

「あったわね。一昨日の昼下がり。すぐに消えたから気にしていなかったんだけど…」
「やっぱりな…。帰ってから城の外を回ったんだが…侵入された痕跡があった」

忍だな、と断言した彼に、自然と紅の表情も真剣なものへと変わる。
気配の消し方からそんな所だろうと思っていたけれど、実際に彼の口から聞けばその真実味が増す。
当然ながら、伊達の忍ではないのだから…他国の忍、と言うことだ。

「政宗様に近づく前に牽制はしておいたから大丈夫だとは思うけれど…」
「…筆頭も大事だけどな、姫さん」

何やら溜め息混じりにそう言われ、紅は首を傾げた。
その雰囲気は呆れているといっても過言ではなく、何か彼にそんな表情をさせる事があっただろうかと考える。
しかし、考えが答えに到達する事はなかった。
いや、ある意味では「分からない」と言う答えには達しているのだけれど。

「あんたも奥州にとっては超重要人物だって事、そろそろ理解してくれ」

そう言われ、暫しの間彼の言葉を脳内で理解するのに時間を使う。
それから、自分?とばかりに自身を指差して見せた彼女に、氷景は深々と頷いた。

「…そんなに重要人物になった覚えはないんだけど…」
「雪耶家の当主は?」
「…私、だけど…」
「最近兵の訓練形式を一新し、全体の士気が高めた人物に覚えは?」
「…ある、けど…」
「んじゃ、最後だ。奥州筆頭の正室は?」
「……………」

重要なのかはわからないが、兎に角色々と肩書きを持ってしまっているのだという事は分かった。
頷く彼女に、氷景は短く溜め息を吐く。

「今あんたを失えば、伊達そのものが傾きかねないんだ。それくらいは理解してくれ」
「政宗様に限ってそんな事はないわよ」

あの人は立派な人だから、と、そこだけははっきりと否定してくる彼女。
そんな彼女の言葉に、氷景は目を丸くした。

「姫さん、あんた…」

気付いてないのか?
その言葉を何とか飲み込み、代わりに息の塊を吐き出す。
これを言うのは自分の役目ではない。
いや、きっとあの人はこれからも言葉として伝えたりはしないだろう。
しかし…あれだけ態度で示されながら気がつかないと言うのか。

「…まぁ、とりあえず今のあんたは奥州にとっては大事なんだ。
筆頭を気にするのは分かるが、ちゃんと自分の身も守ってくれよ」
「…わかったわ」

その微妙な間に不安を感じる物の、頷いた以上は口約束とは言え守ろうと努力はしてくれるだろう。
とりあえず、今後は出来る限り目を離さないように―――氷景は改めてそう自身に誓う。

「姫さんの自覚云々の件は一先ず置いておくとして…。
この時期に奥州に偵察に来るのは―――恐らく、越後の忍だな」
「軍神のところの忍と言うこと?」

そう確かめてから、ならば悠希から聞いた彼女だな、と思う。
佐助や氷景と同里の忍であり、軍神上杉謙信の剣―――かすが。
あの細い針で刺すような気配は彼女の物だったのかと、どこか他人のように納得する。
確かに、悠希から話を聞いた印象では、そんな感じだった。

「と言う事は、越後にここの情報が流れていると言う事ね」
「そう言う事になるな」
「…まぁ、別に戦の準備をしているわけでもないし、政宗様には近づけさせなかったから…問題はないけれど」

問題はこれからよね、と溜め息を零す。
越後の上杉と甲斐の武田がぶつかり合うとすれば、必然的に幸村もその場に居合わせる。
そうなれば、政宗がそこに参戦する可能性は高い。
悟られては困る、と言うわけではないけれど、あまり他国に情報が筒抜けなのは考え物だ。
そんな彼女の心情を読んだのか、氷景は静かに口を開き、恭しく頭を垂れる。

「これからは俺が居るし、偵察なんて許さねぇからご安心を」

言い終わってからニッと口角を持ち上げたその自信に満ちた表情に、紅は安堵したように微笑んだ。

















「かすが、ただいま戻りました」
「おお、かすが。よく戻りましたね」

待っていましたよ、と柔らかく微笑んだ男、上杉謙信を前に、かすがはふやける様にその身に纏う空気を緋色に染める。
だが、すぐに己の役目を思い出し、慌てて取り繕うようにして表情を引き締めた。

「今回、伊達の軍勢に戦の構えは見られませんでした」
「そうですか。奥州が俄かに活気付いていると聞きましたので、この越後に攻め入る策かと思いましたが…」
「ですが…」

そこまで紡いでから、かすがは瞼を伏せる。
これを話しても良いのだろうか、いや、話さなければならない。
脳内でそう判断し、彼女は顔を上げた。
その間も、謙信は急かす事もなく、縁側に静かに腰を下ろしている。

「独眼竜には近づけませんでした。侵入に気付かれ、事が荒立つ前に撤収してまいりました」
「おや…お前にしては、珍しいですね。随分と聡い竜らしい」
「いえ、独眼竜も油断は出来ませんが…気付いたのは女でした。抜刀すらしませんでしたが…」

あと一歩。
あと一歩踏み込んでいれば、彼女は容赦なく斬りかかって来ただろう。
そう判断するには十分な殺気を向けられた。
それを話せば、謙信はその笑みを消さずに口を開く。

「伊達には戦姫が居ると聞きました。恐らく、その女子がそうなのでしょう」
「戦姫と言えば、あの?」
「ええ。戦の構えがないならば、さほど警戒する必要はないでしょう。引き続き頼みますよ、かすが」
「は!」

それから周囲を見回ってくるとかすがが下がる。
彼女を見送り、謙信は短く息を吐いた。




「伊達の戦姫が気になりますか」
「―――…何だ、わかってたのか」
「随分と分かり易く反応していましたからね」

奥から出てきた慶次はやれやれとばかりに髪を掻く。
そして、乱暴にならないよう謙信の隣へと腰を下ろした。

「あいつは―――戦姫なんて言われてるけど、普通の娘だよ。優しくて一生懸命で…強いけど、ちゃんと弱さも分かってる」

あれからどうなったんだろうと心配していたけれど、風の噂で内乱は食い止められたと聞いた。
原因となった当主が代替わりしたことも耳にして、あぁ、彼女が上手くやったんだな、と口角を緩めたものだ。

「でも、よかったよ。一緒になれたみたいでさ。やっぱ、女は好きな男の傍に居るのが一番。謙信もそう思うだろ?」
「…そうですね。慕う者の傍にある女子は、美しいと思いますよ」

そう言って僅かに表情を和らげる彼に、慶次は「そうだろ?」と笑う。
それから、空を見上げるようにして大きく伸びをした。

「元気にやってるみたいだし。また機会があれば会ってみてもいいなぁ」

そんな事を思うと、その時が楽しみになってきた。
いっそ奥州に乗り込んでみるか、などととんでもない事を考え出す彼の隣で、謙信はのんびりと茶を啜る。
武田との一戦に向けて動き出しているはずの上杉は、至極平穏であった。

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07.09.27