廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 086 --

夜、紅は風通しの良い縁側で月明かりを頼りに地図を見つめていた。
すでに上着が必要な時期は当の昔に過ぎていて、通っていく風がなければ暑いと感じる気温だ。
月明かりの下で鍛錬してくる、と言って部屋を後にした政宗は、今頃小十郎と刀を交えているだろう。
朝も昼も夜も、ご苦労なことだ。
自分もあまり変わらないけれど、少なくとも夜はゆっくりと休みたいと思う。
嬉々として刀を片手に去っていった背中を思い出し、紅はクスリと声を上げた。

「―――――」

不意に、地図へと落ちていた視線が、別の場所に動く。
だが、それも一瞬のことだ。
すぐに視線を戻した彼女は、着物のあわせへと手を伸ばす。
さもそこにある扇子でも取り出そうかと言う自然な動作で取り出されたものは、そのように風流な物ではない。
紅はクルリと振り向くと、月明かりを反射させるそれを迷いなく投げつける。
タン、と天井に突き立つかと思われたそれは、絶妙な指捌きにより天井板の合間をすり抜けた。
同時に、何か―――そう、大きな物が動くような、ガタンと言う音が彼女の耳に届く。

「こんな夜更けに、城主の寝所に何をしに来たの?」

僅かに寛げた胸元を戻しつつ立ち上がり、壁の所に置かれていた小太刀の一つを手に取る。
そして、その場から動いていない気配を見上げ、よく通る声でそう言った。
数秒―――恐らく、この間にその者の脳内では忙しく今後の計画が練り上げられていたのだろう。
やがて、カタン、と小さな音がした後に、紅の前方に少し距離を開けてそれが降り立つ。

「見つからないかと思ったんだけどね。…どうやら、甘かったみたいだ」
「こちらこそ、随分と甘く見られていたようね」

認識を改めていただけたようで何よりです、と目を細める紅。
彼女の前に降り立った人物は、迷彩服を月明かりの中へと映し出した。

「お久しぶり、紅さん」
「…何用?」
「そういや、氷景は?こんな事になれば一番にあいつが動くと思ったんだけどね」
「…………………」

会話になっていない。
意図しているのか、元々の性格なのか。
彼、佐助は紅から視線を逸らし、キョロキョロと周囲を見回す。
そんな彼の様子に紅が諦めるのは早かった。

「…氷景は政宗様の元にいるわ」
「あぁ、なるほど。夜の鍛錬か何かに付き合ってるわけだ。その辺は旦那と同じだなぁ、ここの城主」
「私の質問にも答えてもらいたいわね。返答次第では…」

そこで語尾を濁し、刀を僅かに鞘からずらす。
カチャリ、と音を立てたそれに、佐助は軽く腕を持ち上げた。

「おっと。ここであんたと遣り合う気はないさ。偵察だよ、偵察。氷景もよくやってるだろ?」
「…甲斐が動こうとしているというのは本当のようね」
「って言うよりも、うちの旦那が動こうとしてるだけだけどね」

まるで隠すことなどない、と言うように、彼は即座に答えを返してくる。
紅は彼への対応を図りかねていた。

「夜に寝所の屋根裏に入り込むなんて、他に目的があると思われても仕方がないわよね?」
「独眼竜を暗殺なんて、片手間に出来ることじゃないさ」

独眼竜。
政宗を指す言葉に続いた暗殺と言う単語に、紅は眉を顰めた。

「…それより、俺は独眼竜の寝所に忍び込んだ筈だけど?」
「………間違ってはいないわね」
「へぇ…。じゃあ、あの噂は本当なわけだ」
「噂?」

殺気どころか武器すらも持たない佐助に、紅は馬鹿らしく思えて刀を鞘に戻す。
そうして鸚鵡返しのように問えば、彼はニッと口角を持ち上げて続けた。

「伊達の戦姫が竜に嫁いだって話さ。今頃は南の方にも届いてるんじゃない?」
「…………………」

予想していた返答内容に、紅は口を閉じたままだ。
佐助は肯定も否定もしない彼女を前にしてその表情を読む。
だが、そこに浮かんでいるのは喜怒哀楽ではなく―――ある種の、戸惑いだった。

「紅さん?」
「どうしてそんな事が噂されるのかしら」
「え?そりゃ…めでたい事だからじゃないの?」
「政宗様が戦姫の名を利用したみたいにも聞こえる。これでは…」

ぶつぶつと呟き出す彼女に、佐助は自身の頭を掻いた。
何と言うか…彼女の脳内が変な方向に動いている気がしてならない。
伊達の戦姫を娶った事により、政宗が名を上げようとしている―――そう思われることを懸念しているようだ。

「あのさ、紅さん。もう少し、肩の力を抜いてもいいんじゃないの?」
「…え?」
「あんたが仕えるような人だ。少なくとも、独眼竜は名を上げるためにあんたを嫁にしたわけじゃないんだろ?」
「それは…そう、だけれど…」
「それに、これは奥州内の村で一番の噂だよ。皆、あんたらの結婚を喜んでるんだ。
邪推する奴には、させておけばいい。あんたはただ…寄りかかってればいいんだよ」

宥めるように穏やかにそう言った彼に、紅は驚いたように目を見開く。
けれど、次の瞬間には苦笑に似た笑みを零した。

「まさか、あなたにそんな事を言われるなんて…相変わらず、お節介ね」
「そうかな」
「でも、ありがとう。分からない事ばかりで、少し力んでいたのかもしれないわ」

そう言った時の彼女は、苦笑ではない表情で柔らかく微笑んでいた。
彼女の表情に軽く目を開く佐助。

「戦場のあんたも綺麗だけど、そうやって笑ってる方が似合ってるよ」
「お礼の代わりに教えてあげるわ。もうすぐ戻ってくる」

騒ぎになる前に退散したら?と縁側を指す。
自分でも気配を読み取れていないにも拘らず、はっきりと断言する彼女。
何故かそれが偽りだとは思えず、彼は素直に本能に従った。
庭先の木へと飛び乗った彼は、続くように縁側に出た彼女を見下ろす。

「真田の旦那は独眼竜との再戦を望んでる。…あんたとはすぐに会うことになりそうだ」
「それはこちらも同じ事よ。茶菓子を用意出来なくて申し訳ないって伝えてくれるかしら?」
「はは!しっかりと伝えておくよ。じゃあな」

バサッと羽音がした。
同時に、佐助の姿は掻き消え、その場に烏の羽根が舞う。
紅は風に乗ってきた羽根の一つを指先で捉え、笑みを落とした。

「敵としてではなく同士として肩を並べる事ができたなら、これ以上に強い味方はいないのに…残念ね」

呟いた声は、床の軋む音によって掻き消されるほどに小さな物だった。
地図は広げたままの状態で縁側に向かって立っている彼女の様子は、僅かな疑問を抱かせたのだろう。
足音の主であり、この部屋の主である彼は、彼女から姿が見えるそこで足を止めていた。

「お帰りなさい、政宗様」
「―――…忍…か」

気配はすでに消えていることから、自信を持って告げる事はなかった。
しかし、彼ははっきりとそう唇を動かす。
紅は彼の言葉に苦笑を浮かべた。

「害はないでしょう。今頃…きっと、氷景が追っています」

これは嘘ではない。
戻ってくる、と告げた時に感じたのは氷景の気配だった。
消えた佐助を追うようにその気配も消えたことから、恐らくこの仮説は正しい。

「逃がしたのか?」
「……………」
「別に構わないが、あんまり言うなよ。小十郎あたりに言ったら怒鳴られるぜ」
「…心得ておきます」

敵を逃がした事を「構わない」と言えるには、相当の自信が必要だ。
逃がした忍が翌日には自分を討ちに来ないとも限らないのが、この戦国乱世。
それを返り討ちにするだけの自信があるからこそ、構わないと言える。
もちろん、逃がした彼女を「間者」として疑わないだけの信頼も必要にはなるけれど。

「話は終わりだ。これ以上月が傾く前に寝るぞ」

そう言って彼女を追い越し、中に入る。
いつもの位置に刀を置くと、そこから彼女を振り向いた。

「来いよ」

そう言って差し出された手を見つめ、そっと小さく笑みを浮かべる。
はい、と返事のそれを紡ぎながら後ろ手に障子を閉ざした。

07.09.17