廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 067 --
ザワリと兵たちがざわめくのが聞こえた。
最終調整を行なっていた政宗は、それに気づくと地図から顔を上げる。
それとほぼ同時に、集まっていた兵たちが何も言わずに左右へと割れた。
彼らの視線を物ともせずに真っ直ぐにその道を歩いてくるのは紅。
彼女が歩く度に、長い黒髪が水の流れのように柔らかくゆれる。
「―――来たか」
政宗がそう呟き、口角を持ち上げる。
隣に控えていた小十郎は彼の反応に目を細めた。
今回、別行動を取るようにと指示された時、彼は反対しなかった。
誰よりも近くで政宗を支え、守ってきた彼だからこそ、政宗の考えが分かっていたのだ。
その行動の理由を彼の口から明かす事はない。
今回の戦が勝ち戦に終わることを―――そう、願うばかりである。
「遅れました」
「いや、問題ない。皆、伊達の戦姫に興味津々だな」
「…彼らの期待は裏切りません」
「いい返事だ。期待してるぜ。…今は最終確認の最中だ。紅も、もう一度地形に目を通しておけ」
彼にそう言われると、紅は一歩下がって位置から足を踏み出して地図を覗き込む。
すでに完璧に頭の中に記憶されている地形をもう一度確認していく。
その態度には怠けや適当さは見えず、真剣そのものだ。
時折、風の悪戯で邪魔をしてくる髪を掻き揚げる仕草は、酷く男の目を誘う。
戦前で浮き足立っている兵たちには目のやり場に困る光景だった。
紅は一通りそれを確認し終えた所で顔を上げる。
すでに傍を離れていた政宗と小十郎が何かを話しているのが見えた。
その向こうには武器を調えている兵たちもいて、その場はいかにも戦前の空気を纏っている。
「戦…か」
何だか、不思議な空気だと思った。
スポーツなどの試合前のそれと似ているかもしれないけれど、気迫が違う。
命の遣り取りが行なわれるのだと感じさせるだけの鋭さがあって、それはチリチリと火傷のように肌を刺激した。
普通の女性であったならば、この空気に飲まれてしまってもおかしくはない。
現に、城の中であるにも拘らず、見渡せる範囲に女性の姿は見当たらない。
しかし―――紅は、違っていた。
背筋がぞくぞくとざわめくような、そんな感覚には覚えがある。
初めて父親と真剣で勝負をした時の感覚によく似ていた。
自分を殺す事はなかっただろうけれど、それでもそのつもりで向かってくる彼を前にした時の、あの感覚。
興奮…と呼べるほどに熱くはなく、例えるならば冷たい炎のようなそれ。
「―――よし、大方揃ったな」
政宗の声が、その感覚をより現実へと近づけていく。
活を入れる、と言うけれど、正しくそんな感じだった。
筆頭がこれでは、兵たちが派手なナリをしているのも仕方が無いのかなと思う。
これも個性、そう受け取れる紅は、ある意味では心が広すぎるようにも思えるけれど。
政宗の言葉により兵たちの興奮が最高潮へと到達し、伊達軍の士気は高潮する。
出陣まで秒読みとなった頃、紅は小十郎が政宗の元を離れるのを見た。
彼は真っ直ぐにこちらへと歩いてくる。
「紅殿。少しお時間よろしいか」
そう問われ、周囲を見回してから頷く紅。
まだ時間はある。
これから出陣だという事は彼自身も分かっていることなのだから、時間を取りすぎるという事はないだろう。
こちらへ、と促されるままに彼の後に続き、人気のない場所へと向かった。
喧騒は聞こえるけれど、誰かに話を聞かれる事はない―――そんな位置。
「何か大事なお話ですか?」
彼らと出会ってもう一年になるが、いつまで経っても小十郎には丁寧語を使ってしまう。
当主となった今、彼女がこうして丁寧に話すのは政宗と彼くらいだ。
「知っての通り、俺はこれから政宗様とは別行動を取る」
いつもは自分との身分の差を踏まえ、敬語を使ってくる彼。
そんな彼が、やや砕けた物言いで真剣な声を零したことに、紅は若干驚いた。
しかし、それを顔に出す事無くその言葉を聞く。
「だから…紅。政宗様のことを、頼んだぞ」
必ず、生きてこの場所へ。
その思いの込められた言葉に、紅は一瞬返事を失っていた。
どの家臣よりも近い場所で政宗を守ってきた彼に頼まれるという、その大役の意味を今更ながらに悟る。
分かっていたことだけれど、彼から頼まれるのとは訳が違っていた。
「必ず、無事なお姿でこの城にお帰りいただくことを…誓うわ」
本音をぶつけてくる彼との間に、身分はない。
今この時の二人の関係は、政宗を守るという役目を持つ者同士と言う事だけ。
「その言葉が聞きたかった」
そう言って、彼は貴重な笑みを見せた。
思わず目を疑って、瞼を二・三度開いたり閉じたりしてしまう。
そんな彼女の様子に気がついていないのか、それとも無視することに決めたのか。
彼はふと顔を上げて周囲の様子を見回し、すでに時間がないことを悟った。
「お前も怪我はしないようにな」
「小十郎さんも。すぐに合流するから、それまで頑張って」
「すぐに、か。頼りになる言葉だな」
彼はそう言いながら紅の肩をポンと叩いて歩き出す。
そして紅もまた、彼に続いて虎吉の待つ方へと歩き出した。
久しぶりの外に喜んでいるのか、戦前のやや活気付いた空気に触発されているのか。
いつもよりもやや足取りの軽い虎吉の背に揺られながら、紅は時折後方へと意識を向ける。
あまりにも情報として入り込んでくる人の気配が多すぎて眩暈を起こしそうだったが、それももう慣れた。
偶にブルル、と鬣を振る虎吉の首を撫で、前へと視線を送る。
紅の目の前を行く者は居ない。
僅かに右に視線を動かせば、青い外套に身を包んだ政宗の背中が視界に映り込む。
自分に続く何千と言う人の数に臆する事無く、真っ直ぐに前を向いて歩くその背中。
迷いも戸惑いもなく、ただ前だけを見据えて進み続ける背中があるからこそ、兵たちもまた、歩み続けることが出来る。
大きい人だと、この世界に来てから、何度そう感じただろうか。
自分は、これからもずっと、彼の背中にその感情を抱き続けるのだろう。
「守る―――必ず」
彼には自分の守りなど必要ないだろう。
だが、これから繰り返される何十と言う戦の中で、ただ一度でも彼に危険が及ぶならば。
その一度だけでも、必ず守ってみせる。
忠誠を誓う騎士の如く、紅は胸元の石を拾い上げ、そっと唇を触れさせた。
07.07.18