廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 064 --
紅がこの時代へと飛ばされてから、間もなく1年が経過しようとしていた。
うち半年近くは各地を点々としていたとは言え、その1年の大部分を奥州で過ごした彼女。
無論、順応性の高い彼女はすでに新しい地に慣れ、自分なりの地位を確立していた。
先頭を切って出陣するかと思われた政宗だが、彼は思ったよりも冷静だったらしい。
各国の動きが分かるまでは動かないと告げられてすでに三ヶ月。
燻りは見えるが、はっきりとした火の手が上がったと言う情報は、まだない。
いつでも彼と共に出陣できるようにと日々精進を重ねた紅は、すでに小太刀を己の腕の如く自由に扱えるようになった。
鍛えてくれる政宗の努力もあり、その実力は伊達軍の中でも群を抜いている。
今日も今日とて、平穏な一日が過ぎる―――そのはずであった。
「紅~」
のんびりとした声が、修練場に居た紅の耳へと届く。
だが、そちらに視線を向けるような馬鹿はしなかった。
前から突き出された真剣を正確に、かつ最も小さな動きで避け、そしてその反動を利用して攻めに転じる。
隙が出来るであろうと踏んでいた政宗は、ヒュゥ、と口笛を吹いた。
しかし彼もまたその行動に隙を見せることなどなく、次なる攻撃へと身体を動かす。
攻め同士の、派手な鍔迫り合いの音が修練場の中に響いた。
ギギギ、と金属音独特の音が耳を刺激するが、そんなものは耳に入っていない様子で目の前の相手だけを見据える。
他の世界が遮断されていた。
「オラ、どうした!?男に力で勝てるのか!?」
辛うじて拮抗が保たれているのは、彼の力が本来のそれではないからだ。
体格差、腕力の差―――それらを踏まえればどう考えても自分が不利である事は明らか。
だからいつでも力比べにならないように動いているのに、やはり最終的にはこの状態へと運ばれてしまう。
紅にとっての目下の課題はそこにあった。
「はーい、そこまでにしてくださーい」
そんな声と共に、二人の刀の間に竹刀が振り下ろされる。
それが二人の刀を弾かなかったのは、悠希が近づいてくるのを察知して両方が後方へと飛んだからである。
どんなに集中していても、周囲へ気を配ることを忘れてはならない。
戦では、一対複数の戦闘も想定して動かなければならないのだ。
「悠希…邪魔しないでよ」
「私だって邪魔したくはないんだけどね?女中さんが昼餉を食べてもらえなくて困ってるのよ」
時間も忘れて修行しないでくれる?と彼女は束ねた飾り紐から落ちてきた前髪を掻き揚げる。
彼女の言葉を聞いて、紅は「もうそんな時間?」と返す。
それから政宗の方を向くが、どうやら彼も忘れていたらしい。
肩を竦めるだけの行動がその証拠だ。
「ごめん。迷惑を掛けたみたいね」
「そう思うなら気をつけてよね?これで、昼を忘れた回数は片手で足りなくなったわよ」
まったく…、と盛大な溜め息を零すが、そこに不満を抱かせるような色はない。
紅が日々精進を重ねる間、悠希とて何もせずに過ごしていたわけではなかった。
彼女は冗談じゃないと言う紅を押し切り、彼女の侍女のような事をしている。
と言ってもそれを本職とする女性達から見ればお遊びのようなものだが。
自分の出来る範囲で手伝う事で、女中たちとも仲良くやっているようだ。
こうして面と向かって文句など言えるはずも無い彼女らに代わって、悠希が声を上げるのもそう珍しくはない。
「まったく…。筆頭も、ちゃんと止めてくださいよ。紅は猪みたいに猪突猛進で、前しか見てないんですから」
「猪突…っ。それはあんまりだと思うわ」
「集中したら自分の身体を省みなくなる人の言葉に説得力なんてありませーん」
フンと顔を逸らす彼女に、紅は困ったように苦笑を浮かべた。
確かに、彼女の言い分は一理ある。
自分の記憶が確かならば、修行を始めたのは朝餉の一時間ほど後のこと。
初めは動かぬ案山子を前に素振りや居合い抜きを行なっていて、それに政宗が加わったのがその半時間後だ。
それからずっとこの修練場の中にいる。
すでに日は完全に昇りきっていて、時間を数えれば恐らく片手の指では足りないだろう。
そう言えば、何だか凄く疲れているかもしれない…一度感じてしまった疲労感と言うのは拭えないもの。
震えそうになる膝に、実感はなくとも時間は過ぎていたのだなと自覚する。
「ま、それだけ体力が追いついてきてるってことだ。―――いい傾向だぜ」
そう言って政宗はポンと紅の頭を撫でて彼女を追い越していく。
その背中を見送ると、悠希は紅を振り向いた。
「………あのね、ちょっと褒められたくらいで魂抜かないでくれる?」
とりあえず、心ここに在らずと言う状態の紅の頭を叩いておいた。
遅すぎる昼食を終えた紅は、のんびりとした時間を過ごしていた。
暇さえあれば修行、もしくは当主としての勉強を重ねる彼女の、ささやかな憩いのひと時。
それを邪魔する者はなく、皆がその時間を穏やかに過ごせるようにと気を配ってくれているのを知っている。
その気配りに甘えるようにして、この時間帯はいつも縁側で素足を投げ出して座り込む事にしていた。
のんびりした時間を満喫していた紅は、不意に近づいてくる氷景の気配を感じ取り、眉を寄せる。
この時間に彼が運んでくる報せは、自分にとってはあまり喜ばしくないものであることが多い。
それを覚悟する時間を用意してくれているのか、単に今まで急いできたので疲れて速度を落としているのか。
氷景が忍であることを考えれば有力なのは前者だが、真相は彼しか知らないことだ。
コト、と盆の上に湯飲みを置くと、彼が舞い降りるであろう位置へと視線を向ける。
その二秒後に、寸分狂うことない位置に氷景が膝を着いた。
「ただいま帰った」
「ご苦労様」
「至急報告したい事がある。…筆頭は?」
「…この時間だと、いつも通りに執務中だと思うわ」
小十郎さんが迎えに来たから、と答える。
そんな彼女の言葉を聞き、彼は少し思案するように口を噤んでから、漸くそれを開いた。
「なら、筆頭を呼んでくる。いつもの部屋に入っておいてくれ」
「ええ。他に誰かに声を掛けておく?」
そう問いかけると、彼は悩む間もなく否と返した。
それからすぐに姿を消す。
彼の気配が遠のいた事を確認してから、紅は盆を片手に立ち上がった。
空になった湯飲みは中身が零れる事を心配する必要はない。
足早に移動する途中で会った女中にそれを預け、代わりに新しい茶を用意してくれるよう声を掛ける。
二つ返事の了承を聞いてから、氷景の言っていた「いつもの部屋」へと足を向けるのだった。
渡された報告書は、まず紅の手元へと渡る。
現在氷景が主人としているのは彼女であるからして、それは普通の事だった。
そして、その報告書は彼女の手によって開かれ、しかし目を通される前に政宗の元へと手渡される。
これも、米沢城ではよく見られる光景であった。
理由は二つ。
一つは、紅に政宗よりも先にその内容を把握するわけには行かないという想いがあるから。
そして、もう一つは―――氷景の達筆を読んで理解するのに時間が掛かってしまうからである。
哀しいかな、後者に関しては現代人の性というものだろう。
解く前に手渡さないのは、それを自分に渡した氷景の思いを考慮しての事だ。
すでに達筆な文字を速読することに長けていない事は話してあるので、彼もそれを気にしたりはしない。
今回もまた、同じ状況が部屋の中で行なわれていた。
「……………」
報告書を受け取った政宗はザッと目を通し、要所を確認する。
目が移動するにつれて険しくなる表情に、その内容の重さを理解するのは十分だった。
「………事実か?」
「間違いはない」
「…そうか」
声を低くそう呟くと、半分に折りたたんで紅へと戻す。
読め、と促しているわけではないようなので、受け取るだけで目は彼へと向けたままにしておく。
彼は内容を噛み締めるように沈黙し、やがて紅へと独眼を向けて口を開いた。
「…戦が始まる」
彼の言葉に紅は目を見開いた。
覚悟はしていて、そう遠くはない未来に起こるであろうとも予測していた。
しかし、こう現実として突きつけられれば、僅かながらも心が揺れ動くと言うものだ。
武者震いから来るそれか、恐れのそれか―――彼女の心中を悟るのは難しい。
「では、兵の準備を進めます」
「あぁ。―――紅」
改めて名を呼ばれ、紅は一度瞬きしてからじっと彼に視線を返した。
すでに「はい」と返事をするには時間が流れていて不自然になるだろうと、口は閉じたままだ。
「次の戦はお前にとっての初陣になるだろう。準備が過ぎる事はない。念入りに行なっておけ」
「分かりました」
「お前の家臣に伝えてきていいぞ。俺は氷景から詳しい話を聞いておく」
政宗の言葉に頷くと、紅は即座に立ち上がって部屋を後にした。
彼女の足音が聞こえなくなった所で、彼はふっと口角を持ち上げる。
「まさか、初戦の相手がこの男とはな…悠希あたりが喜びそうだぜ」
「そっちも重要だが…問題は武田の方だ。すでにこいつを追って出陣してる」
「今奥州が立ち上がったとあれば…間違いなく、邪魔しに来るだろうな」
紅が置いていった報告書をもう一度手に取り、目を通す。
少しだけ考えるように沈黙した政宗が次に口を開くのは、その目に武将の炎を宿してからだった。
07.07.09