廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 036 --
ふと、山道を駆けていた紅たちの頭上に影が指す。
丁度林が切れたところだったから気付けたのだろう。
紅は空を仰いでその影の正体を確認し、目を細めた。
「凍雲!」
自身の真上で丸く旋回する凍雲に、紅はそう声を掛けた。
来てくれるという確信はなかったけれど、もしかしたらと言う気持ちが唇を動かした。
やがて彼はスッと頭を下げると、真っ直ぐに紅の元へと降り立ってくる。
近づいてくればわかる、その大きさに思わず苦笑を浮かべた。
今までの自分だったならば、こんな馬鹿でかい鳥が近づいてくれば全力で逃げただろうな。
そんな事を考えつつ、前に降り立つ凍雲の邪魔にならないよう虎吉を止める。
そしてひらりと軽やかに地面へと降り立つと、すでに地に足をつけていた凍雲に近づいた。
彼は彼女の接近に気を悪くした様子もなく、首を持ち上げる。
甘えるように目を細めた彼の嘴を一撫ですると、その首に掛かっている筒状のそれに気づいた。
紅の意識がそこに向いたことに気付いたのだろう。
凍雲は取れとばかりに胸を突き出す。
「…私に?」
そう問いかければ、是、とばかりに一度翼を羽ばたかせる。
ふわりと彼の黒い羽が舞うと、虎吉が迷惑そうに二歩ほど後ろに下がった。
筒状のそれを首から提げたまま、蓋を外して傾ける。
そうすれば中から掌よりも小さな巻物が転がり出てきた。
「…氷景からか…」
その巻物に書かれていたのは、文章ではなく地図。
自分の持つそれと照らし合わせた所、それがこの先の道であることがわかった。
どうやら、迂回路の存在を見つけてくれたらしい。
朱の線を追って、それがやや山頂を避けて通る道であることを知る。
彼の忠告を覚えていた紅はその地図に小さく笑みを零した。
そしてそれを地図と共に懐に収め、労うようにもう一度凍雲を撫でる。
「ありがとう」
その言葉を聞き終えた凍雲はゆっくりと翼を羽ばたかせて空へと舞い上がった。
そして紅の頭上を二度ほど大きく旋回した後、ゆっくりと飛び立っていく。
凍雲の姿が木々の向こうに消えたのを見届け、紅は鐙に足を掛けて虎吉の背に跨る。
それから、先ほど貰った地図通りの道順をもう一度脳内に思い浮かべ、彼の腹を蹴った。
一山超えると、言葉に出してしまえばそんなに距離は無いようにも思えてしまう。
だが、それは大きな間違いだった。
思った以上に大きな山であったらしく、信濃を出発してから日数を経て漸く例の町へと到着した。
すでに夕刻であったその日は身体を休めることにして早々に宿入りし、その翌日。
まだ少し朝の空気が残る道を歩きながら、紅は冷たい掌にはぁと息を吹きかけた。
この寒さが和らぐには、あとふた月ほどは掛かるだろうか。
自分の時代を思い浮かべてその誤差はどの程度だろう、と考える。
それが降って来たのは、丁度その時だった。
「ウキッ!」
「!?」
咄嗟の出来事に反応できなかったわけではない。
ちゃんと手は刀に掛けられていた。
それを抜くまでには至らなかっただけの事。
急に視界が真っ黒になって、ぬくぬくとあたたかくて、それから妙に息苦しい。
頬やら鼻先やらにふわふわした何かの感触もある。
よくわからないけれど、何かが引っ付いている―――と言う事だけはわかった。
「?」
それが危険ではないと言うのは、それの纏う空気で知る事が出来た。
一旦刀の柄に手を掛けるのをやめると、そのまま顔にへばりついている何かを剥がす。
首と思しき場所を掴み上げて引き剥がし、焦点を合わせられる位置で持ち上げた。
「………猿…?」
小猿なのか、子猿なのか。
どちらかはわからないけれど、兎に角猿だ。
猿が、自分の手の中に居た。
「な…何で猿が…?」
キョロ、と周囲を見回してみるが、山間の村と言うわけではなく猿が降りてきそうな場所はない。
加えて、この猿は中々洒落た格好をしている。
これで野生と言う事はないだろう。
と言う事は、誰かに飼われていると考えるのが普通。
「お前、どこの子?」
返事が返ってくるはずがない、と理解しながらも、紅はその猿に問いかける。
首根っこを掴み上げるのをやめて、もう片方の手の上に乗せればくりんとした目が自分を見上げてきた。
浮かぶのは戸惑いではなく、純粋な興味。
「人懐こい猿って初めて見た…」
そう言いながら、怖がらせないように頭を撫でてみる。
心地よさ気に目を細めるその姿と言えば、以前どこかの雑誌の表紙を飾っていた温泉に入る猿を思い出させた。
ここまで猿に接近した事はなかったが…可愛いではないか。
しきりに自身に向けて短い手を伸ばしてくるところを見ると、構って欲しいのだろうか。
思わず表情を綻ばせてその頬を撫でた。
「あれ?どこ行ったんだ?」
不意にそんな声が聞こえて、悪い事をしているわけではないのに肩を揺らしてしまう。
少し力が入ってしまったのか、掌に乗っていた猿が迷惑そうに「キッ」と声を上げた。
ごめんね、と謝罪と共にその小さな頭を指先で撫でてから顔を上げる。
向こうから歩いてくる青年。
―――長い髪を後ろで結い上げてド派手な服装。身体つきも悪くないし…見た目だけなら、あんたは苦手かもね。
やる事なす事、見た目通りに豪快だし。私は結構好きなタイプなんだけどね。猿が目印…なのかなぁ。
「頭に羽…」
思わず、そう呟いてしまった。
羽が生えているわけではない。
高い位置で結い上げた髪に挿してあるのだ。
何か…大きな鳥のもののようだが、中々美しいそれだ。
ぼんやりとそれを眺めていた紅は、不意に彼の視線が自分のそれとかち合うのを感じた。
「…なぁ、あんた」
「はい?」
「あんまり女一人で桜の下に立つもんじゃないよ。攫われちまう」
「桜って………まだ咲いてませんけど」
やや真剣な表情でそう告げられ、紅は思わず自分が佇んでいたすぐ脇にある樹木を見上げた。
立派な木だと思っていたが…桜だったらしい。
その枝振りを注意して見ればそれが桜だと言う事に対しては疑いを持たない。
先ほどまで気付かなかったのは、気にしていなかったからと、それがまだ蕾もつけていない状態だったからだ。
満開の桜の下に女性が一人で立つと、神隠しのように攫われてしまう。
そんな実しやかな噂を聞いた事はある。
事実がどうであれ、それが昔からの言い伝えであったならば彼がそう言うのも無理はないのだろうか。
「いや、わからねぇよ?俺が見惚れるくらいに綺麗だったんだからさ」
そう言って綺麗に微笑まれて、自身の頬を染めずに居られる女性なんて少ないと思う。
ただでさえ端正な顔立ちの彼に見つめられるだけで、顔の血液が沸騰寸前のように感じてしまうのに。
それを隠すように顔を背けた彼女に、彼はどこか楽しげに笑った。
その笑みは先ほどの綺麗なそれとは違い、子供のような屈託のないそれだ。
視界の端でそれを捉えてしまった紅は、コロコロと変わるその表情に魅せられる。
と、そこで手の中で包み込むようにしていた彼が動き出した。
「…わ、っと」
ぴょーんと飛び出してきた猿を危うく受け止める。
思わず声を発した彼女に、彼の方も少しばかり驚いたように目を瞬かせた。
「あ、夢吉!」
「夢吉?」
「どこに行ったのかと思って心配したぞ」
そう言って彼が駆け寄ってくれば、猿…いや、夢吉は嬉しそうに紅の掌を蹴った。
そして慣れた調子で彼の手から腕を走り、それから肩に落ち着く。
毛繕いするように顔を両手で撫でてから、甘えるように紅に手を差し出してきた。
主人の元に帰ったにも拘らずそうやって愛想してくる姿が可愛らしく、クスリと笑ってから彼の頭を撫でる。
「あんたが見つけてくれたのか?助かったよ」
「急に飛びついてきただけよ」
何もしてないわ、と答える。
それから、改めて彼に向き直る。
「ねぇ、あなたが前田慶次?」
突然名前を出されたからだろうか。
彼は少し驚いたように目を見開き、けれどもすぐに表情を戻して口を開く。
「確かに、俺が前田慶次だよ。知ってたのか?」
「可愛い猿が目印、って話を聞いていたから」
そう言って、人差し指を唇に添えて、にこりと悪戯に微笑む。
そんな彼女の言葉の後、夢吉が「キッ」と嬉しげな声を上げた。
会話が理解できているのか、それともノリが良いのかはわからないけれど。
07.04.09