廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 035 --

外套に口元を埋め、ふぅっと息を吐き出す。
その端から漏れた吐息が白く曇り、視覚的に寒さを際立たせた。
厳しい山越えになる。
氷景の忠告は正しく、すでに信濃の上田城を後にしてから二日。
山頂にはもう暫く掛かりそうだ。












「参られるか」

馬舎から虎吉を受け取った紅。
そんな彼女を待っていたのは、いつもの服に身を包んだ幸村であった。

「ええ、先を急ぐ理由が出来てしまいましたので」
「そうか。危険を承知で先に進まれると言うならば、最早止める理由はござらん。
この幸村、紅殿の旅の無事を祈るとしよう」
「…感謝します」

虎吉の手綱を握ったまま、紅は深く頭を下げた。
危険だからこれ以上西に向かわない方がいい。
そう言ってくれた彼の助言は素直に嬉しかった。
けれど、自分にも引けない理由はある。
すでに奥州を出てからふた月と少しの時間が流れた。
帰りの時間を思えば、そろそろ折り返し地点を決めなければならない頃だろう。

「美濃へ向かうのはやめにします」

虎吉の毛並みを整えるように手拭いで撫でながら、紅はそう告げた。
彼女の動作を眺めていた幸村は、その発言に軽く目を見開く。
危険を承知で京を目指すものと思っていた。
だが、どうやら違っていたらしい。

「尾張も危険と仰っていましたので、またの機会にしましょう」
「…それを避けて京を目指すと?かなり遠回りになるが…」
「いえ、このままだと京まで進む時間もなさそうです。適当な所で引き返すことにします」

甘えてくるように頬を摺り寄せる虎吉に苦笑しつつ、それを腕で押さえて毛繕いを続ける。
彼女は決して振り向かず、けれども幸村に向けて言葉を投げた。

「そうか…。残念でござるな。京の都は雅な所だと聞く」
「そうですね。でも、目的は達成できそうですから」

だから、構わないんです。
そう言って、彼女は漸く首だけを振り向かせた。
彼女の言う目的が何なのかを、幸村は知らない。
理由は上手く説明できないけれど、それを聞こうとも思わなかった。
ただ、目的を達成出来ないとあれば、自分の忠告は果たして正しかったのだろうかと悩んでしまう。
故に、彼女が京に行けない事を残念に思っていないと言うその様子が、彼を安堵させた。

「それは良かった」
「幸村様には感謝しています。こうして…お館様にお会いできる日が来るとは思いませんでした」

補足しておくならば、戦場以外で、と言う言葉を補わねばならないだろう。
政宗が目指す天下。
信玄もそれを目指していると言うならば、いずれ見える事にはなったはずだ。
少なくとも、それより前に信玄が誰かに討たれる、と言う事にならなければ、だが。
敵としてではなく、こうして幸村の計らいの元に彼と会えた事は、自分にとっても大きな成果だった。
とても大きな人なのだと言う事は彼の話からわかっていたが、自身の耳でそれを聞くのとでは訳が違う。
確かに、武田信玄という男は幸村の言うように大きく、そして優しい人だった。


先に出会ったのが彼だったならば、もし政宗と出会っていなければ。
もしかすると、自分は彼の元で天下取りに向けて奔走することになっていたかもしれない。
彼にならば付いていきたいと思えるだけの人柄を持ち合わせた人だった。


「刀を取る以上…次に会う時は、敵としてかもしれませんね」

紅はポツリと呟いた。
その手は作業を止める事無く、虎吉の背に乗せた鞍を結び付けている。

「…紅殿。もし、紅殿が良ければ…武田軍に――」
「幸村様」

幸村の声を遮るようにして、強くその名を呼ぶ。
その続きを紡がせるわけにはいかない。

「私にも、すでにお仕えすると誓った方がいます。幸村様と同じように、あの方にこの命を捧げることになりましょう」
「やはり、ただ流れていたわけではないのか…」
「黙っていた事は申し訳なく思います。間者だと…思われても仕方がない」

ギュッと解けないように強く結び目を作る。
そして、紅は身体ごと彼を振り向いた。

「私を斬りますか、幸村様」
「―――…今更…某に紅殿を斬れる筈がない」
「私も同じです。いずれ敵対する身とはわかっていますけれど…この場であなたを斬る覚悟は出来ません」

場所を限定したのは、今と言う時でなければその覚悟があると、その意味を込めたからだ。
覚悟が出来なくても、しなければならない時は来る筈だ。
お互いがお互いの信じた主の元で刀を握るならば。

「次に会った時は敵…何とも、無情な世の中でござる」
「そうですね。でも、この陽の下に生れ落ちた以上、私達はこの世界で生きていかなければなりません。
だからこそ、一刻…一秒でも早く、この無情な乱世を終わらせたい。その為に、あの方の元で刀を取ります」

紅の言葉は静かに、けれども強く、幸村の耳へと届いた。
それは、彼女なりの覚悟ゆえにそう聞こえたのだろう。

「某も…そう、思う」

静かにそう答えた幸村に、紅は柔らかく微笑んだ。

「次に会う時が戦場であったならば…馴れ合いは不要。私の全力でお相手いたします」

その言葉に彼は少し間を置いた後、強く頷いた。
そして、彼自身も同意であると答える。

「幸村様の本気に対峙するには、かなりの鍛錬が必要ですね。そうでなければ…命がいくらあっても足りません」

クスリとそう笑った彼女。
目の前で微笑む女性は、戦場でどのような表情を見せるのだろうか。
それを想像する事は難しく、結局はその時にならなければわからないと言う結論。
ただ、その時にも今のように微笑まれたならば…自分は、彼女を斬れるだろうか。
斬れる、と即答は出来なかった。
そんな事を考えている間にも紅は準備を終えてしまったらしい。
何度か虎吉を撫でた後、徐にその背に跨った。
そして、馬上から失礼、と彼女は自身に声を掛けてくる。

「本当に、ありがとうございました」
「旅路には不埒な輩も多い。…十分に注意されよ」
「ご忠告、肝に銘じておきます」

そう答えながら外套の前をあわせる。
用意は整った、後は出発するだけ。
そうして紅は今一度幸村を見下ろした。

「いつか天下が統一されたならば…一度、ゆっくりと茶でも飲み交わしたいものですね。桜など見上げながら」

穏やかに雑談でも交わすかのように。
紅は澄んだ声でそう言った。
そんな彼女を見上げ、幸村は頷く。

「…その折には、先刻話した茶屋の団子をご馳走しよう」
「ええ、是非。では、私は美味しい茶でも持って参りましょう」

明日の我が身も保障されないこの時代。
いつか来るかもしれない未来の約束など、確約できる筈もない。
お互いに、それを理解しながらも頷いた。

未来を夢見る事だけは自由だから。


それ以上の言葉は不要。
紅は前を見据えた後、彼に向けて笑みを残し、そして馬を走らせた。
有り余る体力のままに駆け出す虎吉は、紅を乗せたまま瞬く間に小さくなっていく。
それを見送ると、幸村は静かに息を吐き出した。

07.04.07