廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 032 --

銀色のそれを糸から抜き取り、唇に添える。
そうして息を吹き込むが、笛と分類することの出来るそれは音を奏ではしなかった。
代わりに、数秒後にガサリと庭先の木が揺れる。

「霞桜氷景参上、ってな」

枯葉だけを纏った木々の上で、月を背中に背負って彼はそう笑う。
どこか戸惑いのそれを浮かべている紅の表情に気付いていないという事はないだろう。
だが、彼はそこを追求したりはしなかった。
代わりに「御用は?」とそう声を掛ける。

「あなたの事だから…各地の状況を調べているんでしょう?」
「…まぁ、仕事だからな」
「信玄様との話は聞いていたわよね。私はこれから西へと進むつもり。―――あなたは、それをどう見る?」

状況を問う事はしない。
説明された所でそれを理解できるとも思わなかったし、何より信玄たちの言葉を疑っていなかったからだ。
ただ、この世界を…戦乱の世の裏まで見ている忍である彼の意見が欲しかった。

「…正直に言っていいんだな?」

若干声を落としての問いかけに、紅は静かに頷く。
そんな彼女の視線を受けながら彼は頭を掻いた。
それから、その表情を真剣なそれへと切り替え、視線を返す。

「俺個人の意見は、反対だな。筆頭からあんたの事を任されている以上、危険は出来るだけ避けてもらいたい」

迷惑だ、と言う声ではない。
そこに感じたのは、政宗からの命だけが理由ではない、氷景自身の心配。
それは僅かなものだったけれど、しかし感じ取れないほどに小さなものでもなかった。
いつも思うことだが、忍の感情がここまで相手に悟られて良いものなのだろうか。
彼女は自分が人以上に敏感なのだと言うことを忘れて、そんな事を考えた。

「…ま、俺がどう言ったところで、最終的に優先されるのは姫さんの意思だけどな」
「そんな事は…」
「いや、あるんだよ。俺はあんたの忍だ。主人の命令は…ある程度は絶対だからな」

本来忍と言うものは主の命令には絶対なのでは、と思うけれど、「ある程度は」と加える所が彼らしい。
それが受け入れられないような人を主人に持ったならば大変だったんだろうな、と思う。
だが、根本的に彼自身がそう言う人を主人に認めたりはしないのだろう。
選ばれたという事は…少なくとも、そう言う人間ではないと認めてもらったのだ。
それは紅にとっては嬉しい事で、真面目な話をしていた筈なのに口元が緩んだ。
そんな彼女の微妙な変化を読み取った氷景は心中で首を傾げる。
今の会話のどこに、そんな穏やかな表情を見せるものがあっただろうか。
思い返してみても自分ではそれを見つける事は出来ず、早々に諦めてしまう。

「目的があるの」

縁側に出る事はなく、部屋の中から障子にもたれかかる。
そうして月を見上げて、紅はそう言った。
何を突然、とは思わない。
続きを待つように彼女の視界に入れば、彼女の目線に座れと促される。
一瞬悩み、しかし彼女から少し距離を取り、畳の上に腰を下ろした。

「佐助に話したように…人々を見たかった。これは本当なの。でも、他にも目的があるわ」
「…俺が聞いていい事なのか?」
「言わないであなたの仕事を困難なものにするなんて、公平じゃないでしょう?」

そう言って彼女はクスリと笑う。
月明かりに照らされるその横顔は不思議な神秘感を纏っていた。
一人の人間にそんな感覚を与えられたのは初めてで、彼は軽く…誰にもわからない程度に驚く。

「現状を知りたかった。だから、それを知っている…情報を持っている人を探す事」

それが、私の目的。
彼女はそう言うと、頬に流れたまだ少し水気を含んだ髪を背中へと払う。

「その人が…京に居ると言う噂を聞いたわ。私は、その人に会いたい」
「京の人間にそんな情報通な奴が…?忍か?」
「いいえ、普通の町人…ではないけれど、忍でもないわ」
「そいつの名前は?」

氷景の問いかけに、紅は漸くその黒曜石に彼を映すように振り向いた。
自分を見ているようで、また別の誰かを映しているようなその眼差し。
理由はわからないけれど、ゾクリとした。

「前田慶次」
「………前田の風来坊か。聞いた事はあるぜ。気まぐれに京を出て放浪するのが趣味みたいな奴だ」
「…噂通りの人ね」

クスクスと笑う。
紅の言う「噂」と言うのは、本来一般的に使われるであろう意味ではない。
噂は、即ち悠希からの情報。
この世界で言うならば、未来を知る者からの確実なそれだ。
もう間違っているかもしれないなんて考えはない。

「そいつに会うために、わざわざ危ないって止められたような場所を通って西に行こうってのか?」
「駄目?」
「駄目も何も…………阿呆だ、あんたは…」

呆れる事この上ない。
その様な風に、氷景は額に手をやってやれやれと深く溜め息を吐き出す。
そんな彼の反応にも気を悪くした様子はなく、紅は彼の言葉の続きを待った。

「今回俺の意見も聞いてくれたことに関しては、それなりに高く評価できる。
だが、忍の使い方がわかってきてるなら―――なんで俺を京に遣わさないんだ?俺はあんたの忍だと言っただろ」

ガシガシと明るい茶色の髪を掻き混ぜ、彼は口を尖らせるようにして噤んだ。
彼の言い分に、紅はきょとんと目を瞬かせる。
まるで、そんな事など露ほども浮かばなかった、とでも言いたげな表情だ。

「そう言う危険な事を主人の代わりに遂行する。それが忍ってもんだろ。
情報が欲しかったなら、ただ命じればよかったんだ。前田慶次から情報を得て来いってな」

現に、佐助だってそう言う仕事を任される。
そうして各地を探り、時に主人にとって不利益となるものを闇のうちに消し去る―――それが忍だ。

「…嫌なのよ」

忍としての在り方そのものに対する見解の違い。
それを指摘する氷景を一瞥し、紅は再び外に視線を向けた。
寒さが肌を刺す季節だというのに、こうして障子を開け放つ自分は少しおかしいかもしれない。
けれど、この寒さが脳内を冴えさせているというのも、また事実であった。

「私は人伝に聞いた情報が全てだと思いたくない。出来る限り自分の耳で聞いて、そして判断したいの」
「…信用できない、って事か?」
「違うわ。信用できないわけじゃない。私には動く事の出来る足がある。
それの代わりに人を使うような人間にはなりたくないのよ。私は、そんな立派な人間じゃない」

少なくとも、今のように自分で動ける状態にあるのならば、誰かに頼ってしまうのは嫌だった。
そう思わなければ、自分の足を使わない事が許されてしまうのならば―――

「それが許されるなら―――私の居場所はここにはない」

蝶よ、花よと愛しんで保護されたいわけではないのだ。
ここ―――この時代で、自分の居場所を作り上げたい。
そうしなければ、それが確かでなければ…自分と言う存在そのものが霞んでしまうような気がするのだ。
自分と言う存在を生かすことの出来る場所、それを見つけられない限り、この感覚は消えないだろう。
紅が何故ここまで思いつめるのかが、氷景にはわからない。


主人が拾ってきた娘。
右左が理解できているのか…それにすら不安を感じさせるような彼女を任せると告げられ、その任についた。
女性の心の内を明かさせるには、やはり同性がいいだろう、そう判断して、彼女が寝言で呟いた女性の名を借りる。
そうして、より近い所へと踏み込み、害を為す者か否かを判断しようとした。
判断しようとして一言彼女の言葉を聞く度に、一目その行動を見る度に―――氷景は感じていた。

「…まるで、この世界があんたの存在するべき所じゃないみたいに言うんだな」

今この時を生きているのに、彼女の言動の端々にそれを感じ取ってしまう。
直向なまでに自分の居場所を追い求めているような…そんな印象すら受けた。
自分の言葉に、彼女は見るからに反応する。
弾かれたように氷景を映した目は驚きにその色を染め上げていた。
しかし、何かを言おうと開いた唇を閉ざし、代わりに緩く首を振る。

「どこで…そう感じたの?」
「…あんたの行動の全てから。俺が気付いたんだ…あの人も気付いてるぞ」

だからこそ、彼女が旅に出たいと言った事を受け入れたのだろう。
隠しているけれど、その縋るような眼差しから感じる、彼女の切なる願い。
まるで親を探す幼子のような眼差しは、宿木を探しているように見えた。
どんな嵐がその心を揺さぶろうとも、倒れたりせずそこに在り続けるものを求めている。

「………全てが受け入れられないのだとしても…あの人の役に立てるなら…それが、私の存在理由になる」
「理由がなけりゃ、生きていけないのか?」

その問いかけに、紅は何も答えず、ただ儚い笑みを浮かべた。




誰一人として知る者のいない世界がどれほど不安なものか…誰にもわかりはしない。
深い深い闇の中に、蝋燭一つさえ用意されずに放り出されたかのような孤独感。
縋るものがなければ、自分自身を見失わないことだって難しかった。
ペースを崩さず「なるようになるさ」と言いたげな楽観的な姿勢は、彼女なりの精一杯の虚勢だったのだろう。
その姿勢を貫く事で、彼女は何とか自分を守ってきたのだ。
それが一時的な物だったとしても―――そうしなければ、世界が足元から崩れていくようだった。

07.03.31