廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 031 --
「見苦しいところを見せてしまった」
そう言って頬を赤く腫らした幸村に頭を下げられたのは、今から5分前のことだ。
幸村を怒鳴りつけ、襖を巻き込んで庭先へと吹き飛ばした張本人、武田信玄。
彼も同じような内容の台詞を吐いたが、幸村のように恥ずかしいと言うよりは笑い飛ばしている雰囲気だった。
まだ情報整理が行き届いていない間に、紅は自己を紹介する事となる。
「雪耶紅と申します。この度は私のような流れ者の願いを聞き入れてくださいましてありがとうございました」
幸村の時よりも更に丁寧に。
紅は座敷に手をつき、深く頭を下げた。
「そう畏まらずともよい!面を上げよ、紅殿」
信玄の思いのほか柔らかい声に促され、紅は音もなく自身の頭を戻す。
そうして彼に視線を向ければ、熱烈とも呼べるようなそれを返された。
それこそ、穴が開きそうなほどじっと見つめられ、居心地悪そうに少しばかり困った笑みを浮かべる。
「お館様、紅殿が困っておりますぞ」
「おぉ、そうじゃな。それにしても…幸村よ、お前が言うだけの事はある。美しい女子よ」
「な、なななな何を仰います、お館様!!某その様な事は…!」
「はっきりと言うておったではないか」
「……………いや、覚えがありませぬ!」
「いや、ワシは覚えておるぞ。先刻の出迎えの際に、この耳でしかと聞いておる」
「出迎え…?……………あ、あれは!美しい目の女子だと言っただけで…!」
「では、目以外は美しいとは思わんのか?」
「いや、決してその様な事は!」
「悪いね。客人を無視しちゃって…」
いつもの事だから気にしないでよ、と佐助から湯気立つ湯飲みを渡される。
口を挟む暇すらなく、幸村と信玄との会話を聞いていた紅は首を振りながら「構いません」と笑う。
幸村のように力いっぱい慌てられると、からかう側も張り合いがあると言うものだろう。
信玄の表情はまさにそれだ。
幸村本人がそのことに気付いているかは―――あの慌てっぷりからわかるだろう。
「いつもこんな事を?」
「いや?いつもは拳同士の語り合い」
「それは…生傷絶えない日常ですね」
「お蔭で旦那の打たれ強さは天下一品、ってね」
それは喜んでいい事なのだろうか。
ふとそう思ったけれど、打たれてすぐに参るようでは戦場でも日常でも困るだろう。
そう考えれば、お館様のお蔭、と言っても間違いはなさそうだ。
一旦は紅の隣に腰を下ろした佐助だが、白熱してきた二人を見て、流石に止めるべきと思ったのだろう。
やれやれ、と溜め息を吐きつつ彼らの方へと歩き、ポンと幸村の肩を叩く。
そして二・三言何かを話しつつ、クイッと紅を指差す。
その指の先を辿った幸村は、数分振りに落ち着いたようだ。
本当に見苦しい所ばかりを…と彼は言うけれど、紅はそう思わない。
主との仲が良いというのは喜ばしい事だし、何より彼らは見ていて微笑ましい。
流石に目の前で拳の語り合いを始められれば、微笑ましいだけではすまないだろうけれど。
少し熱過ぎる様にも思うが、これが師弟としての本来のあるべき姿なのだろうと思う。
そして、何より―――
「(何、この可愛い人は)」
年齢は同じか、違っていても2・3歳といった所だろう。
けれど、紅にとっては十分可愛かった。
時折見せるその笑顔といえばまるで少年のように眩しい。
自分と話している時とは明らかに違う顔が見えていて、紅にはそれが可愛くて仕方がなかった。
尤も、本人には言えないけれど。
「…時に、紅殿」
「はい」
「北からこの信濃までやってきたと聞いたが…これからはどうするつもりじゃ?」
杯を傾ける信玄に、紅はその質問への答えを悩む。
どう、と言うのが果たして何を指すのか。
旅の行く先か、今後の身の振り方か。
「…美濃、尾張を越えて、京の方へと参りたいと考えております」
「ふむ…京へ、とな。幸村、地図を持って参れ」
「は!」
顎へと手をやった信玄は傍らに控えていた幸村に声を掛ける。
彼は迷う事無く一度頭を下げ、出て行った。
「随分と幸村が心を許しておるようじゃ」
「そう…ですか?」
「うむ。聞けば、幸村と手合わせをしたらしいの。どうじゃった?」
どこか楽しげにそう問いかけてくる彼。
自身の弟子の腕前を赤の他人から評価される、と言うあまりない展開に期待しているのだろう。
どんな答えが返って来るのか。
待ち望んでいるような視線はどこか少年のそれを思わせて、紅は心中でクスリと笑った。
「素晴らしい腕前でした。私など、足元にも及びません」
「そうか。そう言うてくれるならば、ワシも鼻が高い。だが…己を低く見るでないぞ、紅殿」
そう言った信玄に、紅は僅かに首を傾げた。
彼の言わんとすることが理解できない。
「一時とは言え全力を出してしまったと、そう言っておった。それだけ幸村を苦戦させたと言う事じゃ」
苦戦を強いられなければ、幸村とて手加減を忘れて全力で挑むことなどない。
彼が一瞬でもそれを忘れさせられた、全力を出さざるを得なかったと言う事なのだ。
信玄の言葉に、紅は軽く目を見開いた。
「どうじゃ。ひとつ、ワシと手合わせをしてみぬか?」
「ご、ご冗談を!!」
それだけは何が何でも拒否したい。
悠希の話によると、彼の攻撃は腕力に物を言わせたものも多いというではないか。
紅の最も苦手とする種のそれだ。
尤も、戦場に出ようと考えているのだから、そんな事を言っていてはいけないのだが。
それでも、こんな所で自分の手の内を明かすような事は避けたい。
首がもげるのでは、と言うほどに左右に振って否定する彼女に、信玄は楽しげに目を細めた。
「そこまで嫌がられるとは…」
「いえ、嫌と言う訳ではないのですが…っ。色々とこちらにも問題がありまして」
幸村を相手にするのと、信玄を相手にするのとでは訳が違う。
一国の領主を相手にして、まさか怪我でもさせようものなら…本人が許しても周りが許さないだろう。
そんな事は杞憂だろうし、それを言ったら政宗はどうなるのだと言う話でもある。
彼の場合は…周りが周りだけに、笑い話で済むような気がするのだ。
紅の偏った考えかもしれないが、兎にも角にも、彼の相手だけは嫌だ。
そんな彼女の必死さが伝わったのか、初めから本気ではなかったのか。
信玄は喉で笑っていたのをいよいよ声のそれへと切り替える。
「お館様が声を上げて笑われるなど…何か、良い事でもございましたか?」
笑う事自体が珍しいわけではない。
ここまで笑い声を上げるのが珍しい、と、今しがた戻ってきた幸村は紅に告げる。
彼女はどう返事をして良いものかと悩み、結局苦笑いを浮かべるだけだった。
「確か…尾張の方では織田のうつけが何やら不穏な動きを見せておるらしいの」
「織田…」
織田なら、歴史としてもある程度は知っている。
元々人名を覚えるのは得意である紅だ。
歴史の成績が致命的なのは、その人物が何をしたと言う所に結びつかないから。
そこに年号を照らし合わせ始めれば、その苦手加減は否応無しに現れてくる。
「美濃は織田の手に落ちたのであったかの、幸村よ」
「は。先日は未だ落ちず、と言う報せを受けましたが…何分、ひと月も前の事ですので…」
「お館様、美濃は二週間ほど前に織田に落とされてますよ」
挙手した佐助からの進言により、それは明らかとなった。
彼の言葉に驚いたのは他でもない幸村だ。
「な…!誠か、佐助!初耳だぞ!!美濃は信濃の目と鼻の先。それが誠ならば、対策を考えねばならぬ」
ふと紅が視線を向けた先に居た彼の横顔は、城を任された者としての強い表情だった。
いつものそれとの懸隔に、彼もまた、戦国の乱世を生きる一人の武将なのだと実感する。
「紅殿。今信濃から西へ向かうのは危険でござる。織田の軍勢が動いておるならば、戦に巻き込まれるやもしれぬ」
「幸村の言う通りじゃ。まだ激しくはないにせよ、各地の戦火は徐々に上がってきておる」
いずれ、戦へと発展する。
その言葉に、紅は目を伏せた。
いざその時が迫っているのだと聞かされれば、覚悟が揺らいでしまうのを感じる。
所詮、自分は現代人だ。
戦、戦争…そのどちらも経験していない。
人が死ぬといえば交通事故や病気、または寿命―――それが、当たり前だと思っている。
そういう認識を拭えないからこそ、未知なる領域の前には見えない壁があるようだった。
それはブラウン管の中の世界を見ているのと似ていて、しかし現実であるという一種の矛盾。
人の死が手柄だと称えられるこの世界で、自分はどこまでやれるのだろうか。
07.03.29