廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 017 --

カッポカッポと蹄を鳴らし、虎吉が歩く。
その背に跨り、手綱を指先に引っ掛けた状態で地図を開いているのは二日前に奥州を旅立った紅だ。

「まずは甲斐。武田信玄、猿飛佐助それから真田幸村」

―――ガタイのいいおじ様よ。戦場では虎模様の服に軍配斧だからすぐに分かるわ。
―――忍なんだけど、忍んでないから見つけるのは難しくないわね。時代錯誤に迷彩の服で得物は手裏剣。
―――お館様命。赤い服に六文銭を首から提げて、二槍を使うの。優男なんだけど、紅好みに可愛いわよ。


親友の声を思い出し、心が切なくなる。
けれど、それを振り払うように頭を横に振ると、彼女は前を見据えた。

「あと1キロも進めば次の村だから…頑張ってね、虎吉」

この世界に来て、もうすぐ一ヶ月になる。
それでも当然ながら現代の癖と言うのは抜けないもので、距離の単位も元のものを口にしてしまう。
幸い、それを聞く者はこの場にはなく、不思議がられる事もない。
紅の励ましにこたえるように、或いはまだまだ体力は有り余っていると見せるために。
虎吉は頼んでも居ないのに歩くのをやめて軽く駆ける。
負けん気の強いと言うか、何と言うか…。
突然の走り出しにも動じる事無く体勢を変え、紅は苦笑した。

「ありがとう」

お礼を述べると同時に、畳んだ地図を持った手で彼の鬣を撫でる。
















「現代で言う道の駅…かな」

そんな独特の歓迎の雰囲気を持つ村に、紅は思わずそう呟いた。
虎吉の手綱を取り、馬屋を探す。

「姉さん、随分といい馬に乗ってるねぇ」
「…戦の途中で逃げ出した馬よ。いくら?」

馬屋の主人に言い値を支払い、虎吉を預けて村の中へと歩き出した。
だが、三歩進んだ所で彼女はクルリと振り向く。
そしてにっこりと、けれどもどこか寒い空気を纏う笑みを浮かべ、言った。

「その子に変な真似をしたら…この刀で胴体と首が離れるから、そのつもりで」

いやらしい笑みで虎吉を見ていた主人は、青い顔でコクコクと張子の虎の如く何度も頷いた。
大方、勝手に逃げただのなんだのと理由をつけて彼を得ようと、浅はかな計画を立てていたのだろう。
この程度の度胸ならば、こう言っておけば下手な事は出来ない。
もう虎吉は安全だ、と紅は今度こそ中心部へと歩き出した。





甘いものに目が無い、と言うほどではないが、人並みには好きだ。
偶々目に入った茶屋でそれを購入し、店先に腰を下ろしてお茶と共に頂く。
そうして通りを行く人を眺めながら、紅は湯飲みを傾けた。

「ご主人。このあたりに廃れた村ってある?」

丁度隣の湯飲みを片付けに来た店の主人にそう問いかける。
彼はそれを手に持ったまま少し悩み、やがて何かを思い出したように頷いた。

「あぁ、あったねぇ。ここから南西に下った所に」
「…ありがとう」
「しかしね。あそこには近寄らない方がいいよ。何せ、野盗の根城になってるからね。
お姉さんみたいな上玉は、すぐに掴まって遊ばれてから他国に売られちまうよ」
「あら、そんなに弱くないわよ?」

そう言って勝気に笑うと、空になった湯飲みを彼の盆の上に乗せさせてもらう。
そしてパンッと外套を払うと、彼女は主人に礼を言った。

「あ、ついでに聞かせて欲しいんだけど…ここから甲斐までは何日くらい掛かる?」
「甲斐まで?普通の馬なら四日程度かね。徒歩ならその倍は掛かるよ。何しろ、峠越えだからね」
「なら、三日…いや、二日半か。ありがと」

紅は彼に笑みを残すと、そのまま踵を返して村の外れの方へと消えていく。











「さて、と」

村の外れにて手頃な岩の上に荷物を下ろした紅は、外套を脱ぐ。
そうしてそれも荷物の上に置くと、んー、と身体を伸ばした。

「そろそろ出てきてもいいんじゃない?」

誰に告げるでもなくそう言えば、あばら家の方からヒュンと何かが空を裂いてくる。
それを抜き去った刀で難なく弾くと、彼女はそちらとは逆を向いた。
気配はすでにそちらに移動している。

「お見事」

どこからとも無く、ぱちぱちと言う音が聞こえてきた。
ザッと地を踏みしめる音と共に姿を現したのは、スラリとした長身の男性。
服装的に言えば、武士というよりは忍に近い。
その独特の雰囲気からも、彼の生業が後者である事は明らかだ。
防護よりも軽さを重視した服装で、足音をさせずに一歩、また一歩と近づいてくる。
明るい茶色の髪をショート整え、右前髪の一部だけが腹辺りまで長い。
その長い一筋は、1センチに満たない幅の三つ編みを作っている。
鋭い眼差しは、まるで氷のような薄い水色だ。
一度見れば忘れないであろうその容姿に、紅は一瞬でも構えを忘れて目を瞬かせた。
彼は確実に歩を進め、やがて彼女の前でピタリとその足を止める。

「―――え?」

手を伸ばせば届く距離に立つ彼に警戒した。
けれど、彼は危害を加えるよりも、もっと予想外の行動に出る。

「霞桜氷景。これより雪耶紅を主とし、この命ある限りお仕えする事をここに誓う」

彼は紅の戸惑いなどまるで無視し、膝を着いて彼女を見上げたまま、その左手を取る。
そして、シュルシュルと細い糸のようなものを幾重にも手首に巻きつけた。
きっちりと結び付け終えると、彼はあっさりとその手を解放する。

「時に影より、時に陽より。俺はあんたの元に馳せ参じて、この身を使う。これは、その誓いだ」
「あの…あなた、一体…」
「んじゃ、また後ほど」

軽い調子でそう残すと、彼は屈託の無い笑顔を浮かべて一瞬のうちにその場から消えてしまう。
残された紅は、慌ててその気配を探るが、結局見つける事は出来なかった。

「何なの…」

あまりにも一方的に事が進んでしまった所為で、何がなにやらさっぱりだ。
左手の手首に幾重にも巻かれたその白銀の糸は、彼の目を思い出させる。
長めに残された結び目以降の糸がサラリと風に揺れた。

「霞桜、氷景…」

悪意を感じなかったから、抵抗する術を忘れていた。
彼は自分に仕える、とそう言ったけれど、その真意は分からない。
何故、自分なのかも分からない。
彼が何者なのかも、分からないのだ。
まるで分からない事だらけで、彼女はしかめっ面ではぁと溜め息を吐いた。

「解けそうにもないし…まぁ、その内に解決する…よね」

元来のそのマイペースさを活かし、紅はそう呟くだけでさっさと村の中心部へと戻るべく歩き出す。
そこで、ふわりと金木犀の香りが鼻をかすめた事に気づいた。
何かに気付いたように顔を上げ、周囲を見回す彼女。
しかし、その残り香すらもすでに風に攫われた後だった。

「…そう言う事…か」

これで、一つの謎は解決した。
紅は俄かにその口角を持ち上げ、笑う。
この糸の素材に関してかなり深く悩む事になるのは、これから1時間後の事だ。















本日の宿で、畳の上に身体を寝転がらせながら紅は天井を見つめた。
政宗から渡された路銀は、宿を取るのには使用していない。
と言うよりも、まだ1両たりとも手をつけていなかった。
それならば、この世界の金を持たない筈の彼女が何故宿を取れているのか。
一重に、道中の薬草採集が功を奏しているのだ。
叩き込まれたと言っても過言ではない知識は、この時代においても役に立つものだったらしい。
虎吉の背に跨って道を闊歩しながらも、紅は道に群生している野草の存在に注意していた。
そんな中から薬に使えそうな野草を採取して、村の薬屋に売っているのだ。
そのお蔭で懐はそれなりに暖かく、今日もこうして宿で身体を休める事ができている、と言うわけである。
ごろりと身体を反転させると、紅は荷物の中から畳んだ地図を引っ張り出してくる。
そして、肘を付いてそれを見下ろした。

「今がここで…甲斐は目と鼻の先」

筆で印をつけながら、紅はそう呟いた。
小学校、中学校と嫌々ながら習字の授業を受けた覚えがある。
何でシャーペンが普及したこの時代に習字などしなければならないのか…あの時は、そう思っていた。
まさか、鉛筆も無い時代に来る事になろうなど―――あの頃は、想像できるはずもない。
人並み以上に美しい字を書けるようになっていたことは、素直に感謝したいと思う。

「“この先に野盗の根城あり、気をつけられよ”か…」

地図には渡された時点で危険箇所などに注釈が付けられていた。
何種類かの字である事から、それが複数の人間の意見によって出来たものである事が伺える。
まだまだ顔を馴染ませるには程遠い月日であるにも拘らず、彼らは度々紅に手を焼いてくれる。
一見すると過保護にも思える彼らの行動を思い出し、クスクスと笑った。

「さて…武田の総大将とお目見えできるのはいつになることやら」

時間は限られているのだから出来る限り早く、彼らと会うか、それが出来なくてもせめてその姿を確認しなければ。
紅はその思いを胸に、そっと瞼を閉じた。

07.02.28