廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 010 --
だらりと身体を木の床の上に転がせた。
四肢を投げ出せば、重力だけでなく疲労感が押し寄せてくる。
最早、その指一本すらも動かす事は億劫だとばかりに、彼女はその瞼を閉じた。
キシリ、と床の悲鳴を聞き、彼女はパッと目を開く。
「姫」
「悠希」
手拭いを差し出してくる悠希に、紅はハッとなる。
慌てて身体を起こそうとすれば、彼女は苦笑と共にそれを制した。
「随分とお疲れのご様子。今だけは何も見ておりません」
そう言って、彼女はそっと視線を庭へと移した。
先ほどまで明らかにその視線を自身と合わせていたのだから、見ていないという事はない。
心中で彼女の計らいに感謝して、紅は再び床に寝転がった。
ひんやりとした感触が心地よい。
あの後、政宗は火急の用を告げに来た家臣に、その攻撃の手を止めた。
先ほどまで全力に近いそれを出していたとは思えないほどにあっさりと刀を引いた彼に、少しばかり驚いたのも事実。
即座に家臣と向き合うその姿に、一国の主としてのそれを見て、紅はその表情を穏やかにした。
「悪いな、紅。続きはまただ」
「はい。…その時を、楽しみにしています」
家臣から大体の話を聞いた彼は、紅を振り向いてそう言った。
そんな彼にこう返せば、彼は数回目を瞬かせた後、その片方だけの目を細めて口角を持ち上げる。
「俺もだ。悠希、紅の相手をしてやってくれ。小十郎、これから城下町に向かう。着いて来い」
そう言うと、彼は小十郎を引き連れてその場を去っていった。
彼と対峙した瞬間を思い出して、紅は軽く手を握る。
それが微かに震えるのは、あの時の高揚感を思い出しているからだろう。
彼は全力ではなかった。
けれど、それは己にも言えることだ。
互いに、腹の底を探るようなあの時間は、敵と対峙していたというよりは―――そう。
好敵手との対峙に近い。
現世では到底味わう事のできなかったそれに、紅は自然とその頬が緩むのを自覚した。
女性には珍しい根っからの戦闘好きは、恐らくはその血筋も関係するのだろう。
いくらか実力をつけてからと言うもの、父や祖父に何度もその相手を迫られたのを覚えている。
それから数ヶ月で彼らを抜いてしまった後は、自分にそう言う相手は居なかった。
ただ空想の相手に向かって鍛錬を積む日が続く。
そうせずとも、自分が認めることの出来る相手が居る。
それは、紅にとっては嬉しいの一言だった。
「昼餉はどうなさいますか?」
「え?あぁ、もうそんな時間?」
やや驚いたように空を仰げば、確かにここ数日昼食を頂いていた時間よりは少し遅いようだ。
すっかり忘れていた、と身体を起こした。
「えっと…確か、殿と一緒に用意してもらってる…のよね?」
「はい」
「なら、彼を待ちます」
「いつお戻りになられるかわかりませんよ?」
「構いません。何だか、さっきの興奮が抜けなくて…暫く胃が受け付けないと思いますし」
これは事実だった。
昼食の時間を過ぎているというのに空腹を訴えてこないのが、その最たる証拠だろう。
それが嘘ではないとわかったのか、彼女は漸く頷いた。
「では、繋ぎに何か軽いものでもご用意いたします」
「ありがとうございます」
「その間にお召し替えをなさいませ。汗は身体を冷やしますので」
「…お風呂使ってもいいですか?」
「ええ、もちろんです。では、上がられましたらお茶を用意させていただきますね」
そう言って優しく微笑んでくれた悠希は、姉のようであり、そして母親のようでもあった。
替えの着物を手渡され、風呂へと促されるままに進む。
あれほどに火照っていた身体は、今更になって汗により熱を奪われていたのだと気付く。
温かい湯船にその身を下ろし、紅はそのしなやかな四肢を伸ばした。
「久しぶりにあんなに興奮したなー…何年ぶりかしら」
まるで子供の頃、まだ自分にとって不動の存在であった父との試合を思い出した。
どんなに足掻いてもがいて、でも追い越すことの出来なかったあの時の父が、政宗に重なる。
たった一つ違うと言えば、父の方は、いつかは越せると言う不確かな自信があったこと。
残念と言うか、喜ばしいというか…政宗に関しては彼を追い越すことなど出来そうにないと思った。
でも、と思う。
「常に前を行く存在―――うん、悪くないね」
濡れて頬に掛かる髪を払い、彼女はニッと口角を持ち上げた。
くるくると器用に髪を纏め上げると、持ち込んでいた紐で結い上げる。
邪魔にならなくなったところで、もう一度肩まで湯船の中に沈み込んだ。
「歴史上では天下を取らなかったみたいだけど…あの人が天下を目指すなら、手伝いたいな…」
紙上でしか知らなかった人物が、等身大になって目の前に現れた。
戸惑うよりも先に、それに対する好奇心が歩き出す。
こんな事ならばもう少し詳しく日本史を勉強しておくんだった、と後悔しても後の祭りだ。
理由も原因も分からないけれど、自分は時を渡り、ここに居る。
それだけが変えようもない事実だ。
「悠希だったら、もっと色々と知ってたんだろうけど…」
思わずそう呟いてしまって、彼女は口を噤む。
その名前を出せば、例えようもない寂しさがこみ上げた。
身の回りの世話をしてくれている彼女を呼ぶ時には平気なのだ。
でも、自分の親友であった彼女を指すとなると…やはり、今は戻る事のできない現代が恋しくなる。
その想いが消えてしまうほどに、自分はまだこの時代を自分の居場所だと思えなければ愛しいとも思えない。
これからどう変化していくのかは、彼女自身にも分からないけれど。
朝、自身がこの世界に来た時に着ていた着衣の代わりに用意してくれていたそれを身に纏う。
着慣れない着物姿の自分を見下ろし、紅は頬を掻いた。
時代が時代であれば、紅の家は立派な武門のそれである。
その名残からか、やはり紅の実家は広く、そしてあまり洋式を取り入れてはいなかった。
流石に使い勝手の悪い箇所は自分で変えさせてもらったけれど、基本的に和を重んじる環境。
今と同じように着物に身を包む事も無かったとは言わないが…それでも、少なかった事は事実だ。
「よくお似合いですよ」
彼女が気付いていなかった後ろの裾を整えながら、悠希はそう彼女を褒めた。
我ながら、選別の感覚は悪くはない、と思う。
数ある着物の中から選んだにしては、この似合い様は十分すぎるだろう。
「では、殿がお戻りになられましたら参りますわ。それまでごゆるりと…」
「あ、待って」
頭を下げ、そう下がろうとした悠希を引き止める。
初めての行動に軽く目を見開く彼女に、紅はごめん、と声を掛けた。
「あの…良かったら、話を…聞かせて欲しいんです」
「話…でございますか?」
「はい。あ、でも仕事が忙しいなら構いません」
「いいえ、殿より姫のお相手を仰せ付かっておりますので…。私でよろしければ、何なりと」
そう言ってくれた彼女に、何だかよく分からないけれどホッと安堵の息を吐いた。
今までの彼女を思えば断られるはずがないのに、少しばかり臆病になっていたらしい。
彼女は、失礼します、と紅の隣に腰を下ろす。
「何の話をいたしましょうか?」
「…あ…えっと…」
何を、と問われ、その返事に困る。
具体的に話の内容を決めていたわけではなく、ただ漠然と考えていた。
「じゃあ、殿の話を…」
「殿の、でございますか?」
「はい。………何故、私を伊達軍に迎えようと考えてくださっているのか…それが分からなくて」
政宗について、と答えたのは、半ば反射的だった。
しかし、これはずっと疑問に思っていたことだ。
確かに剣の腕は立つけれど持久力などの観点で言えば男性には劣る。
それがわからない彼ではないと思うのだが…それを差し引いても迎えたいと思って貰えたと言う事だろうか。
紅の問いかけに、悠希は少し言葉を纏めるように口を噤む。
そして、頷き一つの後、彼女はその唇を開いた。
「恐らくは、天下を治める為に姫のお力が必要だと判断なされたのでしょう」
「天…下…?」
「はい。甲斐の武田様、越後の上杉様など、その他大勢の名立たる武将の方々同様に、殿も天下を目指しておられます」
「…はい?」
おかしい、歴史が違うではないか。
自分の記憶が正しければ天下を取ったのは豊臣秀吉だ。
しかし、彼はそんな奥州やら甲斐やら越後やらと天下を取り合ったと記されていただろうか。
歴史が苦手な自分だから「そんな筈はない!」と断言できないことが何とも哀しい。
何をどう説明すればよいのか分からず、けれど受け入れる事も難しく―――沈黙以外に彼女の取れる道はなかった。
07.02.15