現の夢 後編
-悠久に馳せる想い- 番外編
「…私も随分と間抜けになったものだな」
大まかな事情を聞いた紅は深々と溜め息を落とす。
時戻りの薬草を扱っているとわかりながら、それを吸い込んでしまうなど…今の自分では考えられない。
すっかり緊張も解れたらしい暁斗は彼女の膝の上でご機嫌に尾を揺らしていた。
「お待たせいたしました」
「金司…いや、悠希か」
トンッと窓から姿を見せた狐に紅が目を見開く。
それからその目が哀しげに細められた事に気づいたのは蔵馬のみだろう。
今の彼女は、まだ仲間を失って間もない頃の彼女だ。
懐かしむと言うよりはまだ哀しみの方が先に立つ事を、彼は誰よりも理解していた。
「…懐かしい妖気を感じて急いでみれば…………随分とお若くなられましたね…佐倉様」
「数百年の若返りだ。しかし…それだけの年月を経て尚、お前は私の傍に居てくれるのだな。感謝する」
「勿体無いお言葉です」
そう言ってぺこりと頭を下げる悠希に、幽助が首を傾げた。
普段よりも丁寧なその仕草に疑問を抱いているのだろう。
「なぁ、蔵馬。いつもより悠希が緊張してねぇ?」
「悠希は佐倉の使い魔ですからね。あの頃は悠希は『使い魔』としての意識がかなり高かったですから…」
昔の佐倉の姿にその頃を思い出しているのだろう、と彼は答えた。
それに納得したのか、幽助は大人しく座布団の上に戻って彼女らに視線を戻す。
彼女の変化を物ともせずいつも通りに言葉を交わす暁斗や悠希は、彼からすれば尊敬の域に達していた。
「蔵馬ー…いつ解毒剤が出来るんだ?」
「………三日後だな」
「三日…!?」
「この程度の量を吸い込んだだけなら一日で完全に抜け切る。薬は作るだけ無駄だろう」
破れたままの袋の中に残る粉末を眺め、蔵馬はそう言う。
前に自分がこれの影響を受けたと聞いていたが、まさかそれがまだ残っていたとは思っていなかった。
自分のミスだな、と素直に反省し、これの処分をどうしようかと手元を眺める。
そんな彼の視界から袋ごとそれを掠め取っていく手。
「…これがその時戻りの薬草か?」
「あぁ。それ以上戻られても困るから間違っても吸うなよ」
「わかっている。こんな危険なものを放置しておくわけにはいかない」
そう言うと彼女の手の中にあった袋が朱色の焔を上げる。
突然の発火に幽助が驚く中、他の全員は酷く冷静だった。
「お、おい!?燃えてんぞ!?」
「燃やしているのだから当然だろう」
「燃やしてるって…紅ってそんな事出来たのかよ?」
確認のように蔵馬へと視線を向ければ、彼は無言のままに頷く。
それに答えるように暁斗も紅の膝の上でコクコクと首を揺らしていた。
「佐倉は代々使い魔を従える妖狐の種族だ。狐火が使えるのは当然のことだな」
「いや、それが魔界の常識なのかはよくわかんねぇけど…。燃やした煙を吸っても大丈夫なのか?」
次なる幽助の疑問に答えたのは悠希だった。
「狐火は灰も煙すらも残さない焔です。故に一族の間では聖なる焔とも言われるくらいです」
「へぇー…奥が深いんだな…」
両手を握るように動かせば、紅の手の中で燃え盛っていた焔は驚くほどに一瞬で消え去る。
後には悠希の言葉通り灰すらも残っておらず、燃焼独特の臭いも無かった。
「ね、母さん!俺も狐火使える?」
「…さあ、どうだろうな。今までは試していないのか?」
「だってさー。母さん、基本的に狐火ってあんまり使わないんだ。だからこの目で見たのは今日が三回目」
暁斗の扱いも慣れたのか、それとも覚えているのか…。
どちらともわからないが、紅は彼の髪を撫でながら答えた。
「…蔵馬の血筋はどうなんだ?」
「基本的に使えんな」
「私の血筋もおよそ半数が使えていなかったな…ならば、少し厳しいかもしれん。
使えるも使えないも訓練次第だと思われてきたが、最近では血筋の関係でその有無が分かれているらしい」
そう言って前髪を掻き分けるように指を動かしてやれば、不満げな表情が露になる。
癖の少ない銀髪の所為で額はすぐに隠れてしまったが。
「…使いたい」
「無理なものは無理だな。まぁ、試してみればわかるが…」
「……使いたい!」
「………蔵馬、随分と甘やかして育てたようだな…」
やや呆れた視線が蔵馬へと向けられる。
そんな彼女の眼差しに、彼は肩を竦めた。
「お前も人の事は言えんさ」
「………………」
何か言いたそうな表情を浮かべる紅だが、結局何も言わずに口を噤んだ。
ぽっかりと浮かんだ月を眺め、紅は膝の上に乗った暁斗の髪を撫でる。
規則正しい呼吸を繰り返す彼に見覚えはないものの、身体が彼の扱いを覚えていた。
「眠れないのか?」
静かに潜められた声が耳に届く。
振り向く前に膝の上の重みが無くなった。
「…ん…父さん…?」
「寝ていろ」
「ぅん…」
紅の膝を枕にしていた彼を布団に移すと、蔵馬は窓際の彼女の元まで戻ってきた。
夜空を見上げる彼女の姿は、あの無機質な部屋の中の佐倉を思い出させる。
彼女にとってはまだ数ヶ月前の事なのだから、それも無理は無いのだろう。
蔵馬は頭を振ると、彼女の前にあった窓を開く。
紅の視線を感じながらそれをくぐり、脇にあった木の枝へと飛び移った。
そして振り向き、彼女に向かって手を差し出す。
「“俺と来い”」
月を背負うその姿を見て、紅は目を見開いた。
銀の髪が風に乗ってふわりと揺れる。
耳が覚えているその言葉に、口元に笑みを浮かべるとその手に自身のそれを重ね合わせた。
重力を感じさせないほど軽やかな動きで彼の隣へと身体を動かす。
視線を絡めた次の瞬間には、二人の姿は掻き消え、揺れる枝だけが彼らの存在があったことを教えていた。
「穏やかな森だな。妖狼の遠吠え一つ聞こえない」
「…まぁ、当然だろう。ここは魔界ではなく人間界だ」
楽しげに笑う蔵馬に紅は溜め息を零した。
数百年後の未来は自分の予想を遥かに超える出来事ばかりだと思う。
まず、自分が人間界にやってきているなどとは思わなかった。
「何があるかわからないものだな、まったく…」
二人で並んで腰を下ろしてもまだ余りあるような大樹の枝に、彼らは居た。
余計な枝の少ないそれは、少し西よりの空に浮かぶ月を隠す事無く見せている。
「あれは本当に息子か?」
「ああ。信じられないわけではないだろう?」
「……あれほどお前に似ていれば、な…」
否定出来るはずが無い。
そう言って首を振る彼女にクスクスと喉で笑い、蔵馬はその肩を抱き寄せた。
彼女の耳元に唇を運び、小さく囁く。
「お前にも似ているだろう」
問いかけではない確信的な言葉。
それを否定出来るほど、紅は自分を知らないわけではなかった。
「…そうだな。銀髪金目の妖狐か…父親に似て、さぞ男前に成長するだろうな」
「ならもう一人作るか?娘ならお前に似るさ」
ひょいと彼女の身体を抱き上げると、自分の前に降ろして背後から抱きしめる。
首筋にかかる吐息に、紅はくすぐったそうに身を捩った。
「それは今の私に頼め。私は知らん」
「どちらも佐倉に変わりは無い」
「いや、違うな。少なくとも私は…子供よりもお前さえ居れば十分だ」
そう言って苦笑を浮かべると、紅は彼の腕の中で身体を少しばかり振り向かせる。
そして、彼と視線を合わせて微笑んだ。
「一日と言わずに、お前の『紅』を返すよ」
「…方法を知っていたのか…」
「紅は前の失態以後学んだらしい。自身の体内の時戻りの薬草を無効化する方法を知っている」
「時戻りの薬草は記憶肉体ともども完全に過去へと戻すはずなのに、覚えているのか?」
蔵馬の問いかけに紅は得意げな笑みを浮かべた。
過去何度と無くその笑みを見てきた彼にとって、それは言葉以上の肯定だ。
「また逢おう、蔵馬」
重ねた唇が離れたと同時に、彼女の身体を一瞬だけ朱の焔が走る。
それに促されるように佐倉から紅へと、その身体が変化していく。
力なく倒れこむ彼女をその腕に抱き、蔵馬は閉ざされた瞼にキスを落とした。
「…そうだな。また逢おう」
言葉が零れ落ちると同じく、彼の姿も南野秀一へと戻る。
腕の中で眠る紅を抱きなおし、彼は夜空に浮かんだ月を見上げた。
06.04.03