HeAvEn
01 -悠久に馳せる想い-番外編
笑んだような三日月が小さな窓の中を飾る。
冷たい石の壁に凭れながら、女はそれを見上げた。
蝋燭一本の他にこの部屋を照らすのは見下ろした月のみ。
月明かりが彼女の顔の影を深くする。
一人、音のない世界に佇む彼女。
つぅと伝った物は、すでに失ったと思っていた涙だった。
自身の一部が失われたかのように、酷く身体が痛む。
唯一の出口である鍵の掛かった鉄の向こうから、卑下な笑い声が届いた。
鉄の向こうから、より深い…血の匂いが嗅覚を刺激する。
―『我ら、主の為に繋ぐ者』…佐倉様、お傍に在れぬ事をお許しください。―
頭に直接響いてきた最期の声に、彼女はその場に己の身体を抱くように崩れ落ちた。
「
欠けた尾は一つ。
残りは八つ。
私がこの部屋に閉じ込められて、すでに二ヶ月が経とうとしていた。
無論、死なない程度に食事は与えられるし、拒めば無理にでも口を開かされる。
日が昇ればそれから逃げるように窓のある壁へと凭れ、己の膝を抱く。
それが沈んで月が昇る頃には向かいの壁へと移動して白く…銀色に光る月を見上げた。
繰り返される、日常。
動く度にジャラリと音を立てる鎖。
「こんな物で…繋げると思っているか愚者共…」
自分の手首二つ分ほどの鎖だが、その気になれば一瞬のうちに切断することくらい出来る。
それをしないのは…大切な仲間が囚われているから。
この身一つで逃げる事は出来る。
しかし、他の何を切り捨てても…『彼ら』の事を捨てられはしない。
彼らの命を揺らされれば、私には己の命を生かすしかなかった。
カツン、コツン。
小さかった靴音が徐々に近づいてくる。
やがてそれは鉄の向こうで止まり、そして唯一の入り口がその口を開く。
「絳華石を作る気になったか?」
「…なったと思うのか?」
ハッと嘲笑うような声で私は答える。
肉付きの良い体格を持つ妖怪は、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべた。
そして、己の背中に隠してあった物をこちらへと投げる。
「――――――っ!!」
「どうした?もっと喜んだらどうだ。大事なお仲間だろうが?」
そう言って男は卑下な笑みをより一層深めた。
私はその笑みを睨み返すことすら忘れ、ただ己の膝元に投げられたそれを見下ろす。
ゆっくりとそれに手を伸ばし、熱の伝わらない冷たい躯を抱きしめる。
「…貴様だけはこの手で殺す…!」
搾り出した声は己のものとは思えない程に低く、男が怯んで後方へと引き下がったのがわかった。
しかし、今は手が出せないとわかっている男はそのまま口元に笑みを浮かべなおす。
「つ、強がるのも程ほどにすることだな!次はどいつがその獣の後を辿るかわからんぞ!!」
ガシャン、と派手な音を立てて扉が閉じられた。
無機質なそれを通して尚殺気が届いているのか、男は間の抜けた声を上げながら一目散に駆けて行く。
私は腕の中に納まる程に小さなその狐…黄司の身体を抱きしめた。
頬を伝う涙を止める術など知らない。
「…すまない…!」
この声が嗄れれば、弔いになるのだろうか。
物言わぬ黄司を抱きしめ、ただ無限にも思える時を過ごす。
「どうか、安らかに…」
抱きしめた腕の中で、朱の焔が上がる。
それは徐々に黄司の身体へと移り、やがてその全てを無へと帰した。
妖狐であれば訓練次第で誰でも使えるようになると言われている狐火。
狐の間では神聖な炎とされ、それを軽んじて多用する事は許されない。
それを知りながら、私はあえて狐火で黄司を送った。
せめてもの、償いの為に。
望むように本当の絳華石を生み出した所で、あの男が満足するとは思わない。
最終的には服従するまで私の仲間を傷つけていくのだろう。
それがわかっているからこそ、どれだけ脳内に彼らの声が響こうとも耐えてきた。
逃げてくださいと、その一言が聞こえてきても…私はこの場に留まるのだ。
終焉なき宴だったとしても…彼らを見捨てていくくらいならば死を選びたい。
今日も変わらぬ月を見上げ、欠けた尾に想いを馳せる。
「『血の要塞』…か」
風が唸り声を上げるような高所に聳える禍々しい建物。
その一角より確かに感じ取ることの出来る同胞の匂いに、妖狐蔵馬は目を細める。
盗賊として魔界に名を馳せる前に、しなければならない事が出来た。
「…行くか」
誰に言うでもなく、蔵馬はそっと地面を蹴った。
目指すは懐古に似た不可思議な感情を与えてくる、彼女の元。
魔界で生きていくにはいくつかの道がある。
強きに従う道。
己の強さを信じ、それにのみ縋って生きる道。
弱きを踏み、奪う事で己の生を繋ぐ道。
治安がいいとは言えない魔界において、正義などあるはずもない。
己を護るものは己のみ。
蔵馬もそうして百数年を生き延びてきたのだ。
そして、彼は盗賊になる道を選んだ。
石で作られた廊下は酷く寒い。
いとも簡単に建物内への侵入を果たした蔵馬はただ一人そこを進んだ。
盗賊仲間は決して大所帯ではない。
そんな数少ない仲間すら連れず、彼は単身この場へと乗り込んだ。
彼にとって、仲間とも言える狐の匂いを嗅ぎ取って。
黴臭さに眉を寄せながらも彼は只管歩く。
やがて、重そうな鉄の扉が彼の前に立ちふさがった。
頑丈な鍵は蔵馬の顔ほども大きく、決して素手では壊せない。
植物を硬化させれば破壊は可能だろう。
しかし、中に居るであろう彼女にとって突然の侵入は敵意に近い感情を抱かせるだろう。
蔵馬は周囲を見回し、小さめの窓を発見した。
そこから顔を覗かせれば、遥か下の地上から吹き上げる風が銀糸を揺らす。
音もなく窓から身体を滑らせ、恐らく部屋の窓となっているであろう穴に向かって蔦植物を伸ばした。
06.01.03