あと一歩の境界線
夢追いのガーネット Side episode
「紅、居る?」
部室の扉を開けて入ってきた翼は、開口一番そう言った。
部屋の中に居た部員らが顔を見合わせ、首を振る。
「雪耶なら、今日は用事で帰るって言ってたぜ。ドリンクとタオルだけ用意してあるって」
「…用事?」
「あぁ、何でも兄貴から連絡が入ったとか…」
「…わかった。まぁ、この話は明日でもいいか」
持っていた紙を見下ろし、翼は頷いた。
暁斗からの呼び出しがあったのだとすれば、彼女が帰るのも無理は無い。
先程まで部長会議に出ていたから自分には言っている暇がなかったのだと、彼はそう結論付けた。
「そう言えば…椎名、知ってるか?」
「何を?」
「うちのマネージャー、何か手紙貰ってるらしいぜ」
「手紙?」
部員の一人が部室内を横切った翼を呼びとめ、そんな事を告げる。
もちろんそれを知らなかった彼は立ち止まった。
訝しげな視線に、その部員は「なぁ?」と言いつつ傍の友人に同意を求める。
そして、その同意を求められた彼もまた、頷いて見せた。
「確か…白い封筒だったな。俺が見たのは今週3回目」
「俺は先週の末に見たぜ」
「あ、雪耶さんだろ?俺も見た見た。先週半ばに1回」
その時部室に居た数人が声を揃える。
翼はそれを聞きながら、自身の眉が顰められていくのを自覚せずには居られなかった。
彼らの話を総合すれば、二週間も前から何度もその光景を目撃されていると言う事だ。
「………軽く牽制はしておいたつもりだったんだけどね…」
その冷めた表情と口調に、その場に居た全員が思わず動きを停止させて彼を凝視する。
自身に集うその視線に気付いたのか、翼はにこりと笑って見せた。
「知ってる事、詳しく教えてくれるよね」
最早問いかけですらないその言葉に、一同は合わせて首を縦に振った。
そう言えば、悠希はかなりの短気だった。
そんな事を思い出しつつ、紅は現状から逃れるようにそっと視線を逸らしてみる。
結果として特に変わったことも無く、敢えて言うなら目の前で不機嫌に腕を組む人物の眉間の皺が一本追加された。
その人物と紅はテーブルを挟む形で向かい合って座っている。
淡い茶色のテーブルの上には、白い封筒が10通。
その向こうには、それを睨みつけるようにしてソファーに座る自身の兄が居た。
「………悠希ちゃんから話は聞いた」
「(明日まで待ってくれてないし…)」
「何か言いたい事でもあるのか?」
にこりと笑顔を見せた暁斗に、紅はふるふると首を横に振る。
何故、自分の周りには笑顔が怖い人間が揃っているのだろうか…。
奇妙で迷惑な運命のようなものを感じずには居られない紅だった。
「翼にも何も言ってないんだな?」
「………ん」
「まったくお前は…」
笑顔を消し、代わりに呆れたようなそれを浮かべて溜めた息を吐き出す。
そのままソファーに深く沈む彼を見て、紅は視線を落とした。
心配させたくないと言う思いは裏目に出てしまっていたようだ。
「…最近は色々と物騒なんだ。言いたくないって言う気持ちもわかるけど、出来れば話して欲しい」
一昔前に流行った「不幸の手紙」とはワケが違うんだ、と暁斗は言った。
真剣な彼の様子に紅は肩を落とす。
「ごめん。暁斗兄…ただ手紙が入ってるだけだし、そこまで気にする事もないかと思って………」
彼女の声を聞きながら、暁斗はテーブルの上の白い封筒に手を伸ばす。
その内の一つを持ち上げ、すでに開いている口の部分から中を覗いた。
「―――ん?…紅、これ…」
――ピーンポーン――
暁斗の声を遮るようにインターホンが電子音を奏でた。
先に反応したのは紅で、彼女はソファーから立ち上がるとリビングの壁にある受話器を取ろうと手をかける。
だが、インターホンからの映像を見て、彼女の手は止まる。
「…悩むのは勝手だけど、居留守は無理だからな。俺の車あるし、翼にメール送ってあるしな」
「兄さん!?」
「あいつの言葉の方が聞く気になるだろ。んじゃ、邪魔者は退散しますか」
組んでいたその足を解き、サイドボードの上に載せてあった車のキーを取る。
そして、受話器に手を伸ばした状態で動くに動けない彼女の横をすり抜け、玄関から出て行った。
一度はバタンと閉じた玄関のドアが再び開く音、そして聞きなれた兄の車のエンジン音にハッと我に返る。
「逃がさないよ」
今まさに「逃げなければ」と考えた彼女の思考を読み取ったかのような一言。
声のほうを向けば、リビングの入り口に立つ翼が視界に入った。
「…いらっしゃい」
「うん。お邪魔します」
「部活の後だよね。何か飲む?」
スポーツバッグを肩にかけて、この時間に制服のままの姿を見れば部活帰りであることはわかる。
紅の問いかけに頷く彼をリビングの中に促し、自分はキッチンへと消えた。
グラスを二つ用意して、そこに冷蔵庫から取り出したお茶を注ぐ。
時期的にもまだ氷は必要ないだろうと考えて、その二つを布製のコースターと共に運んできた。
一つは、すでに馴染みとなっている一人掛けソファーの前に腰を下ろす彼の前に。
もう一つを自分の前に置いて、彼とは角を挟んで位置するように絨毯の上に座る。
一口目を飲んだ後は、ただ沈黙がリビングを支配した。
カチコチと秒針の動きが耳に痛い。
「…直樹」
「は?」
「五助、六助」
「な、何?」
「それから春日、田中、相原、中野、額田、如月、岸本」
首を傾げる紅を他所に、つらつらと紡がれていく名前。
どれも覚えのあるものばかりで、紅は彼の言葉が終わるまで頭を悩ませる。
最後の岸本、と言う苗字を言い終えると、彼はグラスから一口お茶を飲み込んだ。
「サッカー部…でしょ?何なの?突然名前を連ねて…」
「これ」
グラスをコースターの上に置くと、その手はテーブルの上を滑る。
そして、乱雑に広げられていた白い封筒の一つを摘み上げた。
「………話がよく見えない…」
「あいつらだよ、この犯人。人数ぴったりだろ?」
先程名前を連ねた人物をもう一度頭の中で反芻し、そしてテーブルの上の封筒を見る。
数はピタリと一致した。
「…要するに、サッカー部のおふざけって事ね。何だ、やっぱり心配なんて必要なかったんだ」
「………まぁね」
「何?その煮え切らない返事」
紅が眉を潜めるのに気付いたのか、翼は少し大げさにも思えるほど溜め息を吐く。
そして、封筒の中に入っていた押し花を指先で挟んで彼女に向けた。
「あいつらからの感謝の気持ちと切欠、だってさ。………それと、全部教えてくれた柾輝からの伝言」
「何?」
「………いい加減に素直になれって」
そう言い終わると、彼は視線を紅から逸らしてしまう。
一方彼女の方もじっと見ていることが出来ず、不自然に視線を彷徨わせた。
最終的に自身の手元に視線を固定させ、深く息をつく。
柾輝の言っている事は、この二人が誰よりもよくわかっている事だ。
踏み出したい一歩があるのに、その先を恐れて立ち止まっている。
どうして今のままではいけないのだろうか。
「…紅は…今のままがいいんだよね」
思考を読み取ったかのような彼の言葉に、紅は少し驚いたように顔を上げて彼を見る。
立てた膝に腕を乗せて、彼は壁に掛けられた時計を見つめたまま。
彼女の気持ちがわからないわけではなく、ならば自分も合わせようと思っていた。
それでも、こんな遠まわしな事をしてまで背中を押してくれた彼らを思えば…今のままでは居られないし、居たくない。
最後の一歩を踏み出す勇気を…出してみたいと思った。
「ごめん。関係が変わることを嫌がってるってわかってるけど、言わせて貰う」
「翼…」
「好きだよ。今更だけどね」
膝の上で痛いほどに握り締めていた手が、翼のそれに絡め取られる。
今までの真剣な表情とは一転して、優しいそれを浮かべた彼の言葉。
ストンと、耳から心へと一直線だった。
「………はは…。何を心配してたんだろうね…?」
いつの間にか彼の手から紅の手へと、押し花が移動していた。
それを口元に運び、彼女は笑う。
「幼馴染って損だなー…切欠がなくちゃ、前に進めないなんて」
「本当。いつも言い寄ってくる女子が羨ましいよ、まったく…」
「そうだね。中々…言えるものじゃないよね」
「…で、返事は?」
改めて問い直す彼の表情は得意の笑み。
返事など聞くまでも無いのだろうが、それでも言葉として耳に残したいのが人と言うものだ。
少しだけ照れたように頬を染め、紅はゆっくりと彼の目を見つめ返した。
唇に乗せるのは、何年か前には平気で口に出していて、けれど今となっては気恥ずかしい言葉。
「…私も、ずっと好き」
「ん。一歩前進、だね」
「柾輝たちにもお礼言わなきゃね。言い出したのは多分直樹あたりなんだろうけど」
差出人不明の為、捨てられそうになっていた押し花たち。
くれた相手がわかったからには、これがゴミ箱に入る必要などどこにもない。
白い封筒から一つずつ丁寧にそれを取り出してテーブルの上に並べた。
その作業を手伝っていた翼が、不意に封筒の中を覗き込んだまま「あ」と声を上げる。
「何?」
「…ヒントは残してるみたいだね」
彼が差し出した封筒の中を覗けば、その下の方…目立たない隅に、それはあった。
小さい「五」とその隣のサッカーボール。
他の封筒にも同じ位置に漢字一文字とサッカーボールが書かれていた。
「………わかりにくいヒント」
「ま、これがあいつらの精一杯だろ」
新たに作られたサッカー部。
元あったサッカー部に所属していたメンバーが、今回の直樹・五助・六助の作戦に乗ったらしい。
「こうしてボールを追いかけられるのは、雪耶と椎名のお蔭だから」
そんな想いを胸に、下手をすれば気味悪がられるギリギリのラインを進んだわけだ。
尤も、彼らの目論見はほぼ成功と言っても間違いはないだろう。
彼らの働きもあり、二人が幼馴染から一歩前進することが出来た事だけは確かなのだから。
「やっぱりサッカー部の奴らだったんだ?」
「知ってたの?」
「うん。って言うか、あいつらいっつも靴箱の陰からあんたの様子を見てたわよ」
「…気付いてたなら言ってくれればよかったのに…」
「私も実は共犯なのよね。井上に「何も言うな」って言われてて、素直に従ってたし」
「………悠希、演技上手いね」
「お褒め預かり光栄だわ。ま、一歩前進おめでと。帰りにどこかお祝いに行く?」
「今日はサッカー部の方が忙しいから。また今度ね」
「はぁ…紅は私より椎名を取るのねー…切ないわ」
「悠希が見たがってた映画の試写会当たったんだけどな…翼の好みじゃないし…」
「よし、次の日曜予約ね!ついでにお祝い!」
「はいはい」