Good morning
夢追いのガーネット Side episode
鳥のさえずりが耳に届く。
優しい日差しに包まれて、その意識は覚醒していった。
カチャリとドアノブが下がり、音も無く部屋の扉が口を開いた。
隙間から顔を覗かせた紅はキョロキョロと室内を見回し、そして自身の身体を滑り込ませた。
「お邪魔しまーす」
至極小さな声でそう言いつつ、彼女は部屋の中への進入を成功させた。
扉を後ろ手に閉め、部屋の主が居るであろうベッドへと視線を向ける。
規則正しく上下する布団を見て、軽いガッツポーズ。
起きていない!と喜ぶには十分に早すぎる時間なのだが…そんな事は彼女の頭からは抜け落ちている。
ちなみに今日は久々の部活休みの休日、時刻は午前7時を少し回ったところ。
普段部活や学業に勤しむ学生にとっては、一に休息二に休息…と言う日だ。
とりあえず一枚、と紅は手にしたデジタルカメラをそっと構える。
小さな抵抗と共にシャッターが切られた。
大き目のディスプレイに表示されたそれを満足げに見つめる紅。
そして、彼女はいよいよ本日の課題に取り掛かるべく、その足を一歩踏み出した。
そんな時―――突然、部屋の主がむくっと起き上がる。
隠れる暇すらなく、紅はビクリと肩を揺らし、文字通りその場で飛び上がった。
定まらない目がそれでもしっかりと彼女を映す。
「……………………………」
「……………………………」
互いを包むは奇妙な沈黙。
紅からそれを破る事は出来ず、結果として先に動いたのは部屋の主…翼だった。
彼の腕が持ち上げられたかと思えば、手首から先が上下に揺れる。
まるで、来い来いと誘うように。
ここで彼の機嫌を損ねる=怒られる。
そんな方程式が脳裏に過ぎった紅のすべき事は一つ。
彼女は手に持ったままのデジカメをどこかに置くのも忘れ、足音小さくベッドの彼に歩み寄った。
手を伸ばせば届くところまで近寄ると、紅はそのまま見上げる彼に視線を返す。
翼はその表情に穏やかな笑みを浮かべ、彼女を見ていた。
「えっと………おはよう?」
怒っている時のどこか黒さを思い出させる笑顔ではない、純粋なそれに紅も口元を上げて首を傾げる。
続く言葉を待ったのだが、それが発せられる事は無かった。
先程こちらへ来いと揺らされていた手が、彼女のそれを掴む。
何をするつもりかと考える間もなく、紅は自分の視界が反転するのを見た。
気付いた時には視界は暗く、身体が感じるのは温かな何かに包み込まれていると言う安心感。
耳元を掠めた吐息に、紅の思考は混乱の渦へと放り込まれた。
「つ、翼さん!?」
思わず声を上げる紅だが、その声に反応するように腕の力が強まった。
眠っている間の体温を存分に溜め込んだ布団の中は温かく、まどろみを誘うそれに紅は抵抗を削がれる。
どうしようかと考えている間にも、眠気が包み込んでいく。
「翼ぁ…放してくれないと私まで寝るって…。ねー」
舌足らず、とまではいかないものの、十分に思考は沈みつつあるようだ。
覇気の無い言葉を繰り返す紅の頭上から不機嫌そうな声が降って来る。
「…うるさい」
声に反応して顔を上げるが、それよりも強い力で引き寄せられてそれは失敗に終わる。
いよいよ動かなくなった身体に眉を寄せる紅。
だが、心地よいまどろみにそんな感情は遥か彼方へと飛んで行った。
慣れた香りを纏うそれを引き寄せたところで、意識が徐々に覚醒へと導かれる。
カーテンを通しての日差しに軽く眉を寄せ、そしてまだ重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
丁度顔を向けていた位置にあった時計の針が示す時間は9時30分。
思ったよりもよく寝たな…と寝起きの頭で考える。
そして、起き上がろうとして漸く気付いた。
「…………………は?」
若干体温に差があるのだが、中間を維持するかのような温もりを布団が蓄えている所為でそれに気付かなかった。
自身の胸元で規則正しく寝息を落とす紅を見下ろし、翼は思わず間の抜けた声を零す。
「何で紅が寝てるわけ…?」
そう言いつつも声を潜めてしまうのは、彼女の表情が穏やかで起こすのが憚られるからだろう。
僅かに身を捩った彼女は、それでも起きる事はない。
そんな彼女の寝顔を眺めていた翼だが、ふと身体に当たる硬い何かに気付く。
布団の中に手を差し込み、それを引っ張りあげた所で漸く彼女が何故ここに居るのかが理解できた。
「いい度胸してるね」
にっと口角を持ち上げた彼は、それを悪戯めいた笑みへと切り替える。
「玲さん、紅ちゃんが来てるの?」
リビングで新聞を広げていた玲にそんな問いかけが掛かる。
声に振り向けば、翼の母親がリビングに入ってきた所だった。
朝早くから近所の会合に参加していた彼女だが、今になって漸く帰ってきたらしい。
「ええ。おばさんが出てすぐに」
「あら、そうだったの。その時間じゃ翼もまだ寝てたでしょうに…」
苦笑を浮かべる彼女に、玲はクスクスと笑う。
紅はそれを狙って態々あの時間にやってきたのだから、当然の事だ。
ついでに買い物を済ませてきたらしく、食材の入った袋をテーブルの上に置きながら「ところで」と問いかける。
「翼はもう起きた?」
「いいえ。今部屋に行けば懐かしくも微笑ましい光景が見られると思いますよ」
楽しくて仕方が無いという様子で笑う玲に、彼女は首を傾げる。
その『懐かしくも微笑ましい光景』とやらを見るべく、部屋に向かおうと身体を反転させたのだが…。
「残念だけど、もう見れないよ」
ガチャリとリビングを開いた彼の登場により、それは失敗に終わる。
パジャマ代わりのTシャツとジャージ姿の翼は寝起きの名残をあちらこちらに残しながらリビングに入ってきた。
ソファーにやや乱暴に座り、じろりと玲を睨む。
「おはよう、翼」
「…おはよ」
「紅ちゃんはどうしたの?」
「………寝てる」
翼が一瞬の躊躇の後にそう答えると、彼の母は「あらあら」と笑みを零す。
幼い頃からの付き合いである彼女にとってはあまり驚くようなものではない。
翼の為に作っておいた朝食の準備に掛かる母を横目に、彼は玲に向き直った。
「玲の差し金でしょ」
「質問ですらないなんて…心外だわ」
口ではそう言いながら、玲の表情は酷く楽しげだ。
紅の場合は遠慮が一瞬の躊躇いを生み、決行へは踏み出せないだろう。
彼女はそう言う人間だ。
つまり、誰かがその躊躇いが生まれる前に背中を押した事になる。
そして…この家の中で、そんな事を考え出すのは一人しか居なかった。
「思った以上の成果だったわ。ありがとう、翼」
にっこりと笑い、玲はソファーから立ち上がる。
そのままリビングのドアへと手を掛け、思い出したように「そうそう」と言って彼を振り向いた。
「紅に、家に帰ったら携帯を見るように伝えておいてくれる?」
そういい残し、返事を聞く前に扉を閉じる。
言い逃げだ…と思いつつも、その背中を引き止める言葉を持ち合わせては居なかった。
母親に用意された少し遅い朝食を前に、翼は肩を竦めて溜め息を漏らす。