口付けの意味
--黒揚羽 番外編
「そのトンファーを振り下ろすなら、私は恭弥を許さない」
そんな声が聞こえ、雲雀の手がぴたりと止まる。
男の額から数センチの所でギラギラと光るトンファー。
蒼褪め、程なくして耐えきれなくなったのか意識を失う男。
見覚えがない所を見ると、新入りだろうか。
またディーノから新入りのリストを貰わないと…と思いつつ、足早に雲雀との距離を詰める。
「…紅」
とてつもなく不満げな声だ。
やれやれ、と肩を竦め、彼の隣に立つ。
「帰ろう。迎えに来てくれたんでしょう?」
彼の機嫌の悪さがどこにあるのかを理解しながら、あえてそこには触れない。
紅がそうしているのだと気付いているのか、彼もまた、同じ行動を取った。
歩き出す彼女を見つめ、トンファーを引き、代わりに足元に崩れ落ちた邪魔な男を蹴って退かせる。
攻撃と呼べるほど激しい物ではなかったから、気付いた紅も何も言わなかった。
雲雀が運転してきたらしい車へと乗りこむ。
エンジンがかかり、すぐに走り出した車。
いつの間に夜を迎えていたのか、町の中は暗闇を街灯が照らしている。
そんな中、車は紅が持っているマンションへと向かっていた。
紅が、と言っても雲雀もイタリアではそこを拠点にしているので、二人のマンションのようなものだ。
地下の駐車場に車を停め、部屋に上がるまでの間も無言。
まるで話してはいけないような空気が二人を包む中、エレベーターが止まった。
そこから続く廊下は一直線で、そう長くはない。
ワンフロア丸ごと彼女が所有しているので、玄関は一つ。
電子ロックを開け、中へと入り―――そこで漸く、紅が動いた。
「恭弥」
後ろで玄関のロックとドアチェーンをかける彼を振り向き、その名を呼ぶ。
声に反応して顔を上げた彼は、不機嫌を隠そうともしない。
紅はカバンを足元に落とし、彼の首へとその腕を伸ばした。
首元の髪を指先に絡めるようにして彼の頭を引き寄せる。
そして、ふわりとその頬に口付けた。
小さなリップ音の後に顔を離して、そう遠くない距離で彼を見つめる。
その顔は、予想していた通り―――不機嫌なままだ。
クスリ、と小さく笑ってから、もう一度首を伸ばす。
そうして、次に口付けたのは。
「私がここにキスするのは恭弥だけなんだけど…それでも駄目?」
挨拶のキスも許されないと言うのは、少し窮屈だ。
いずれは慣れるものなのかもしれないけれど…日本と比べて海外はそう言う機会が多いから、不便でもある。
わかり易くその違いを言葉にする紅。
これで伝わらないほど、彼の勘は悪くないはず。
そう思いつつ彼を見つめたところで、やや乱暴に後頭部を引き寄せられた。
ぶつかるように触れた後、繰り返される、噛み付くようなそれ。
食べられるみたいだ、などと考えていられたあたり、少しは余裕が残っていたのかもしれない。
長く続いたそれが終わり、仕上げとばかりに唇を舐めて離れていく彼。
「仕方ないから、それで妥協してあげる」
「ありがとう」
「その代わり、ちゃんと―――君からも求めて」
なんて無茶を、と思うけれど、真剣な表情の彼を見れば嫌とは言えない。
今までまともな恋愛的な付き合いをしていないから、正直とても恥ずかしいのだけれど。
そう言う部分は、どうやら彼には理解できない感情らしい。
先ほど彼に妥協させたのだから、ここは…紅が妥協と言うか、努力するしかないのだろう。
答えの代わりに彼の頬に手を添え、彼の唇にそっと口付けた。
危うく玄関でスイッチが入りそうになる雲雀を強引に風呂に入れる。
ここだけは日本仕様に作り直したのは紅の拘りで、彼にも好評。
不満ながらもそちらに向かった彼を見送らず、カバンを片付けて夕食の準備に取り掛かる。
もしかしたら遅くなるかもしれないと、午前中に下拵えを済ませていたので、そう時間はかからない。
手際よく料理を進めていくと、ダイニングテーブルへの準備が終わった所で雲雀が戻ってきた。
「お腹空いてる?」
「え?」
彼が聞くのは少しおかしい質問だ。
思わず首を傾げた紅は、壁掛けの時計を見上げた。
確かに夕食としてはまだ早い時間で、空腹かと問われれば、それほどでも、と答えられる。
その通りに答えると、彼は紅の背中を押した。
「冷める前に入っておいでよ」
「ここまで用意したんだから、後でいいわ」
「言っておくけど、冷めたわけじゃないよ」
“冷める”と言う単語が、先ほどの風呂に関するものとは違う意味を持っている事くらい、考えなくてもわかる。
ならば、それが示す意味は―――
「………埃、かからないようにしておいて」
こうなってしまった彼の頭に、引くと言う単語はない。
十分にそれを理解できるだけの時を共に過ごしてきているからこそ、諦めの肝心さも身をもって知っている。
溜め息と共に出来上がった料理の保存だけを頼み、風呂の用意を取りに自室へと向かった。
散々好き勝手されたと言う感じは否めないけれど、紅自身も満足感を得ていないわけではない。
人肌を安心できると思う感覚があった事に驚いたのは、もう随分と前の事だ。
片腕を頭の下に通し、一定の間隔で髪に触れる。
もう片方は、まるで逃がさないとばかりに腰に絡みつき、外れる様子はない。
全身に残る倦怠感から好きにさせていたら、いつの間にかこの姿勢が定着してしまった。
夏場は少し暑苦しいと思う事はあるけれど、そこは早めの空調がカバーしてくれる。
お蔭で夏場は電気代が嵩むのだが、どちらもそれなりに高給取りなので大きな問題はなかった。
「ディーノが今度食事でもって」
「断る」
「じゃあ、ディナーに呼んでもいい?」
「―――」
上から降ってくる無言の圧力。
ちなみに今回の無言の意味は「拒絶」だ。
口ほどに物を言う彼の目に、小さく笑う紅。
自分のテリトリーが明確な彼は、この部屋に第三者を入れる事を嫌う。
わかっていての発言なのだから、紅も人が良いとは言えないだろう。
「じゃあ、食べに行く?」
行くか、呼ぶか。
その二択を迫られれば、出す答えは決まっている。
「…付き合う」
「ありがとう」
お礼と共に頬にキスするけれど、返ってくるのは不満げな視線。
「そこ?」
「…はいはい」
もしかしたら、良い口実を与えてしまったのかもしれない。
今までは、羞恥心の所為で上手く回避していた逃げ場が失われたのを感じる。
本当にその内慣れてしまいそう―――そんな事を考えながら、彼の唇に自身のそれを重ねた。
11.05.08