羽化  01
--黒揚羽 番外編

紅が、ディーノをボスと呼ばなくなったあの日から、彼女は彼との時間を増やした。
元々意図的に生活時間を少しずらしていたのだから、修正は簡単だ。
それに気付いていたであろうディーノだが、元に戻った以上彼が何かを言う事はない。
ただ、自分よりも年下で、何事にも前向きな彼女を微笑ましそうに見つめていた。

「研究室の使い心地はどうだ?」
「凄く良いわ」

彼女は、自身の研究に関しての話題にはいつも以上に顔を輝かせる。
ディーノは、そんな表情の変化が好きだった。

「最近、面白い武器の話を聞いて…それに似た研究の真っ最中よ」

だから、下手に入らないでね。
と紅は笑った。
彼女の部屋…先代が用意した研究室に無断で足を踏み入れれば、恐ろしい事になる。
それは、ファミリーの中でもすでに暗黙の了解となりつつあった。
前に不用意に足を踏み入れた奴は、二日間涙が止まらなかったらしい。
催涙弾の効果持続時間を延ばそうとしていたらしい。
目元を真っ赤にした部下を見た時から、ディーノは口を煩くして紅の研究の邪魔をしないよう伝えてある。

「どんな武器だ?」
「んー…10年バズーカ…だったかしら。10年後だっけ?何か、そんな感じのものよ」
「…あれか。撃たれた奴は10年後の自分と入れ替わるって奴」

ディーノの言葉に、紅は「そうそう」と頷く。
リビングのソファーで寛いでいる今でも、彼女の膝の上にはノートが広げられている。
その上に書かれている文字の羅列は、知識の無いディーノからすれば僅かに頭痛を覚える物だ。
カリカリ、と書き足してみては暫しそれを見つめ、やがて眉間に皺を寄せたかと思えばその上に×を重ねてしまう。
どうやら、お気に召す結果にならないらしい。

「休憩時間くらい休憩したらどうだ?」
「それはそうなんだけど…思いついたときに書かないと忘れるから…」
「おいおい。そんな酷い記憶力じゃないだろ」

呆れたように笑えば、そうだけどね、と言う答えが視線すらももらえないままに返って来る。
再びシャーペンが罫線と罫線の間を走るのを横から眺めながら、ディーノは苦笑した。
目の前に置かれた菓子やコーヒーも、どうせ目に入っていないのだろう。
身体を壊さなければいいが…と思う自分に、彼は苦笑した。
心配するまでも無いのだ。
何故なら―――

「紅!休憩時間はノート置けって言っただろ!?」
「あと少しー」
「少しって言ってからすでに30分だ!今すぐ置け!」
「………あ、何するの」

ひょいとノートを取り上げられた彼女は不満げに唇を尖らせた。
そんな子供っぽい表情に、思わずノートを返しそうになる自身を叱咤する暁斗。

「そんな顔しても駄目だからな。休む時には休む。約束だろ」

だが、鉄の理性でもってその誘惑を打ち切った。
彼に見えないように舌を打つ彼女に、ディーノは「さっきの表情は確信犯か…」と心中で笑う。

「暁斗って細かいわよねー…そんなに神経すり減らしてると、はげるわよ?」
「紅がアバウトすぎるんだろうが」
「研究者に向かってアバウトとは随分ね?薬品を取り扱う私が細やかな作業が出来ないとでも?」

そんな筈は無いだろう、とでも言いたげな視線を彼に向ける。
当然、1mgの変化でも結果が変わってしまうような作業をしている彼女に限って、それはない。
まぁ…日常生活においては、研究時の緊張を解すかのように人並み以上に適当な部分も無いとは言えない。
特に、自身の生活に関しては、年頃の女性がこれで良いのかと思う時もあるくらいだ。
丸一日食事を忘れる事だってあるし、研究に没頭すれば夜更かしなど日常茶飯事。
そんな生活をしていても全く衰える事のない彼女の容姿は、まさに神からの授かりものと言えるだろう。
今の服装はYシャツにジーンズと普段着この上ないが、これでも町を歩けば着飾った女性よりも人目を集める。
この間出かけた時の様子を、ディーノと暁斗は同時に思い出していた。

「…ボス、こいつを外に連れて行ってくれ」
「あぁ、別にいいぜ」
「放っておくとコケでも生えそうだからな」
「…毎日太陽の日差しは浴びてるわよ。でも、連れて行ってもらおうかしら」

丁度、薬品の注文に行きたいと思っていたところだ。
そうと決まれば、彼女の行動は早い。
すでに冷めてしまっているコーヒーを飲み干すと、そこに置いてあったクッキーを一つ唇に挟んで自室へと戻っていく。
彼女がリビングに戻ってきたのは、それから5分後の事だった。

「んじゃ、行って来ます」
「おう。ボス、他の連中はいいのか?」
「あぁ、休憩時間にまで引きずるのもな。すぐに戻るから大丈夫だ」

そう言って、ディーノは紅を連れて屋敷を後にする。
この選択が、後々を大きく左右する事になるとは…この時はまだ、誰も予想していなかった。














町へと繰り出した紅は、ディーノに連れられるままに歩く。
冬の着込む時期、彼の象徴とも言えるようなタトゥーも布地の向こうに隠れている。
一見すれば、とてもマフィアのボスには見えないだろう。
外見だけで彼をそれと判断するには、あまりにその要素が少なく…そして、彼は優しい顔立ち過ぎた。
無論、それは紅にも言えること。
寒さを凌ぐためのトレンチコートの前を合わせながら、紅は彼のほうを向いた。

「相変わらず人目を集めるわね、ディーノは」

クスクスと笑い、紅は彼の腕に自身のそれを絡ませる。
これで、傍から見れば二人がカップルであると疑う者は居ないと断言してもいいだろう。
そんな、互いを思いやる心がその纏う空気に表れているようだった。
二人がそんな関係でない事は、本人達が一番よく知っているのだが。

「俺の所為か?半分は紅への視線だぜ、明らかに」
「そんな事ないわよ」
「嘘付け。明らかに男の視線もあるだろうが」

アレが俺に向けた視線だっつーのか?と問いかける。
彼が横目に見た方をチラリと盗み見れば、何とも屈強な男性がこちらを向いているのが分かる。
彼がディーノ目当てなのだとしたら…想像するのも、恐ろしい。
思わず指先でディーノの着衣を握ってしまった紅に、ディーノは苦笑した。
そんな想像してくれるな、と思うが、口に出しても想像されてしまった後では無意味だろう。
それに、人の頭の中を自分の思うように動かす事などできないのだ。

「で、どこに行くんだ?」
「花屋」
「………どこだって?」

何だか、予想しない言葉を聞いたような気がする。
ディーノは思わず歩みを止めて彼女を見下ろした。

「だから、花屋だってば。あの…駅前の」

スイッとそちらを指差し、紅はにっこりと答えた。
確か、彼女は薬品の注文に行きたいと言っていたはずだ。
彼女を外に連れ出すことが目的なのだから、別に行き先はどこでも良かった彼。
当然彼女の行きたい場所に行こうと思っていたわけだが、彼女の口から出てきたのは花屋。
彼女にも、花を愛でるような心があったのか。

「何か、失礼な事を考えてるわね」
「…いや、そんな事ねーぞ?」
「はぁ…。行けばわかるわよ」

そう言って、彼女は止まってしまっていた事を思い出してぐいっと彼の腕を引いた。








徒歩で15分。
散歩には丁度良い時間で駅前の花屋に到着する。
彼女は、行けばわかる、と言った。
しかし、目の前に見えているのは見間違えるはずも無い花屋で…色とりどりの花が咲き誇っている。

「こっちよ」

店の表口から中へと入ろうとしたディーノに、紅からの声が掛かった。
彼女が指差す先は、裏へと回ることの出来る路地だ。

「どこに行くんだ?」
「この地下でね。薬草を売ってくれるの。ほら、花から取れる薬草もあるでしょう?」

だからよ、と答えながら、路地の半ばにひっそりと入り口を構える地下への階段を指差す。
あの大量の薬品やら薬草をどこから仕入れているのかと思えば…こんな伝があったとは。

「よく見つけたな…」
「9代目に教えてもらったのよ。いい店を紹介しようってね」
「ボンゴレか?」

その問いかけにコクリと頷き、鉄製の階段をカンカンと下りていく。
階段の幅は狭く、二人が並んで進む事は出来そうに無い。
彼女を先頭にディーノが後へと続いた。

06.12.11