君のそれで潤い、満ちる
40万Hit感謝企画
朝練の真っ最中に、それは突然やってきた。
テニスコートにはまだ始業のチャイムも鳴らないと言うのに元気な声が響いている。
平部員…と言ったら失礼かもしれないが、とにかく彼らが目一杯声を張り上げているのだ。
「朝からあんなに声を出させなくても…」
などと言う紅の心遣いが生かされる事はない。
「こら!!どこから入って来たんだ!!」
突然コートの外からそんな声が聞こえた。
声を聞いた部員が「また偵察か?」などと言っている。
「荒井、どうしたの」
ボールカゴを運んでいた悠希が声の主、荒井に問う。
「佐倉先輩!この子供が勝手にコートに入ろうとしてたんですよ!!」
そう言って自分の陰に隠れていた子供を悠希の前に出す彼。
その子供を見て、悠希が溜め息を漏らす。
「アンタねー…子供相手に大人気ない。恐がってるじゃん」
今にも泣き出しそうな子供に目線を合わせるように、悠希がしゃがみ込む。
「君、どこから来たの?」
優しく問いかけるものの、先程の荒井の剣幕が恐かったのか答えない。
暫く待ってみても結果は同じで、悠希は再び溜め息をつく。
「荒井。紅を呼んで来て。部室に居るから」
「雪耶先輩を…?」
「あの子、妹と弟が居るから子供の扱いに慣れてるのよ。早く」
「あ、はい!!」
慌ててその場を去る荒井。
すでにそこには先程の彼の声を聞きつけた部員で人だかりが出来ていた。
レギュラー陣も何事か、と集まって来ている。
「んん?誰かを思い出す顔ね、君…」
「佐倉さん?どうかした?」
「うん。この子が迷い込んでたらしくて…」
首を傾げた悠希の背後から声がかかる。
大石が冷静に子供の前へと出てきたのだ。
そして優しい笑顔で子供に向き直る。
「お兄さんは大石って言うんだよ。君の名前は?」
にっこりと表記できる笑顔でそう問うが、子供はふいっと横を向いてしまう。
どこからか「大石先輩が振られた…」という声が聞こえていた。
青学の母、大石でも駄目だったと言う事で、他の部員は試すことすらしない。
ここまで集団が沈黙を保っていると言うのはある意味異様な光景だった。
「何?この集まりは」
待ちに待った声が聞こえた。
人だかりの中心へと誘う花道を作るかのように、紅の前が一斉に開ける。
その様子に紅が目を見開いて停止していた。
「荒井に呼ばれて来たんだけど…何事?」
「あー…紅、とりあえずここに来て」
悠希の言葉に引かれるように中心へと進む紅。
やがて、そこにいる人物らを見て取る事が出来る距離になった。
「…子供?」
「そう。あのお姉ちゃんなら優しいよ?」
そう言って悠希が子供の背を軽く押して紅の方へと向けてやる。
子供が顔をゆっくりと上げた。
そのくりくりとした目に紅が映る。
途端に、その子の目が輝いた。
「ママー!!」
「へ…?」
自分の太腿の辺りに飛びつくように走ってきた子供に、紅が間の抜けた声を上げた。
空気と共に時間すらも止まったかのように、その場を沈黙が包む。
「あー…おめでとう、紅。いつの間に妊娠してたのかしらないけど」
「冗談でもそう言う事は言わないでもらいたいわね」
とりあえず足にへばり付いたままの子供を抱き上げる紅。
―――…めちゃくちゃ様になってるよ…。
一同が心の中で思った。
しかし、それを心の中だけに止めておかないのが悠希である。
「紅…立派に母親ね!」
「嬉しくないわよ、それ…」
苦笑を浮かべてそう言うと、紅は子供に向かって微笑んだ。
「私の名前は紅よ。お名前は?」
「僕は暁斗だよ」
「暁斗くんね。よろしく」
先程まで怯えていた子とは思えないほど笑顔で答える暁斗。
隣で悠希が肩を竦めていた。
「何でお姉さんの事ママって言うの?」
「だってママだし…」
きゅっと紅のジャージを握り締めて俯く暁斗に、紅はその頭を撫でた。
「…紅、とりあえず部室にでも連れて行け」
「そうね。じゃあ、お姉ちゃんと一緒に行こうね」
惜しみなく笑顔を振りまくと、紅は暁斗を連れて部室の方へと歩き出した。
雛鳥よろしく後をついて行こうとした部員だが、手塚の部活再開の一声でコートに戻っていく。
「とりあえず事情を話してきたよ。紅は授業免除だってさ。さすが副会長様」
部室に戻るなり悠希がそう言った。
暁斗と他愛ない会話を楽しんでいた紅が顔を上げて「ありがとう」と答える。
部室の中にはレギュラーの姿があった。
「………授業受けなくて大丈夫なのか?」
「そう言う手塚だってここから動こうとしないくせにね」
すぐに返って来た不二の言葉に、手塚は口を閉ざす。
レギュラーの中には成績が危うい者も居るが…授業を受けろと言っても大人しく聞くような面子ではない。
声を張り上げるだけ無駄、と言うのをよく理解しているのだろう。
「それにしても…めちゃくちゃ懐いてるっスね、紅先輩」
「うん。可愛いでしょ」
暁斗を膝の上に乗せたまま嬉しそうな表情を見せる紅。
リョーマがふいっと顔を逸らす。
その理由がわかっているだけに、他のメンバーもその行動に何かを言う事はなかった。
「罪作りね…」
「悠希?」
「何でもない」
「それよりさ、どうするの?その子。母親とか心配してるよねー」
彼女の膝の上で足を揺らしている暁斗を見ながら問う。
そんな菊丸に、紅は困ったような笑みを作った。
「わからないんだって。何処から来たのか」
「“わからない”?」
「気がついたら校門の所に立ってたって言うんだけど…」
05.05.21