Ice doll   --- sc.001

樹齢100年を越える木の上で、コウは分厚い本を読んでいた。
時折葉を揺らす風が吹き、悪戯に彼女の金色の髪を持ち上げていく。
頬に掛かったそれを指先で払いつつも、彼女は紺碧の眼を文章に落としたままだった。
膝の上に載せていたそれの重みにも慣れてきたところ。
穏やか過ぎる時間はあっと言う間に過ぎてしまって、すでに日が傾き始めている。

「コウ」

不意に、下からそう呼ばれる。
本を落としてしまわないように気をつけながら、コウは下を向いた。
以前こうして呼びに来てくれた人に、厚さ5センチほどの本を落としてしまった事がある。
持ち前の反射神経をフルに活用して避けてくれたので怪我は無かったけれど。

「クラピカ」

どうしたの?と問いかける相手は、優しい雰囲気を持つ少年だ。
本当の姉ではないけれど、姉のように慕ってくれている。
意志が強くて、そして優しい子。

「そろそろ日が暮れるから、迎えに来たんだ。コウは本に集中すると周りが見えなくなってしまうから」
「日が暮れれば分かるわよ。本が読めなくなるもの」

む、と口を尖らせる振りをしながら、コウは本を閉じた。
栞を挟んでいないけれど、丁度章の入れ替わりだから探すのは簡単だろう。
それから、本を小脇に挟み、枝に腰掛けたままの姿勢で後ろへと倒れる。
当然ながら背もたれも何もなく、重力に従うようにコウの身体は倒れていく。
コウ、と慌てたようなクラピカの声が聞こえた。
そのままクルリと身体を回し、音もなく地面へと降りる。
分かっているのだ、この程度の高さから降りたくらいで怪我をするようなドジな人では無いと言うこと。
それでも、ずっと幼い頃から大切にしなければと言われ続けてきた所為もあり、落ち着いていられない。

「コウ…無茶はやめるんだ。皆が心配する」
「…皆が、ね。……そうね。私は…『クルタの秘宝』だものね」
「……コウ…」
「帰ろうか、クラピカ。皆が待ってる」

寂しげな表情を消し、コウは彼へと手を差し出す。
先ほどの話を続けようと思ったのか、クラピカは口を開いた。
しかし、言葉として声が発せられる事はなく、ただ数回空気を噛む様にして唇は閉ざされる。
そんな彼に、コウは苦笑を浮かべた。
ぽん、と彼の金髪を優しく撫でる。

「クラピカが気にすることないのよ」

そう言って、彼の手を引いて歩き出す。
このくらいの年頃になると照れが出てくるのか、手を繋ぐと言う事を喜ばない。
クラピカにも言える事のようで、彼は慌てたようにコウの手を解こうとした。

「こうしてると、昔を思い出すと思わない?」

彼のささやかな抵抗を無視し、そのまま歩き続ける。
林の中を縫うようにして、赤い太陽が照らしている。

「昔も、こうしてクラピカの手を引いて歩いた。…懐かしいな…」

あの頃は、まだ彼は「コウ姉さん」と自分を呼んでいた。
いつからだったかは覚えていないけれど…彼は彼女を姉さんとは呼ばなくなった。
それからも、慕ってくれている事に変わりはないけれど。

「…コウは優しいな」
「そうかしら?」
「ああ。何と言うか…空気が、優しい」
「それは………いいえ、今は話さないでおきましょうか。いずれ知る事になるわ」

言葉を濁すコウに、クラピカが不思議そうに首を傾げた。
いずれ、彼は自分の力で知る事になるだろう。
視覚的にも村の存在を確認できる、と言うところで、コウはピタリと足を止めた。

「クラピカ」
「?」
「私は、村を出ようと思っているの」
「!?それは…!!」

彼が過剰に反応するもの、無理はない。
クルタ族は本来、同胞に囲まれた村から外に出る事はないのだ。
無論、『クルタの秘宝』と呼ばれて大切にされているコウが、出て行けるはずはない。

「駄目だ!村の外は危険すぎる!!」
「…反対されるでしょうね。この事がばれてしまえば…きっと、家からも出してもらえなくなる」
「わかっているなら…」
「世界の広さをこの眼で見てみたい。世界の深さを、文献だけじゃなくて自分の肌で感じたい」

沈みかけた夕日がコウを横から照らす。
その表情は、すでに決意を宿していた。

「外は危険だと言っていた」
「…そうね。少なくとも、ここで暮らすよりも酷い、人間の醜さも目にすることになる」

平和に過ごしている事を受け入れられるような性格だったなら…きっと、そんな醜さなど見ずに生きていける。
けれど、自分はそれを望んでしまっている。
すでに、ここには相応しくないのだと、そう思ってしまっていた。

「100年に1人。私のような、特異体質のクルタ族が生まれる確率なんですって」

彼女はクルタの中で生まれ、そして死んでいったと聞く。
それを聞いた時からだろうか。
自分は、ここではないどこか別の場所で死んでいきたいと、そう思ったのは。

「100年前の彼女は、何を思ったのかしら…」
「コウ…?」
「……クラピカはどうも大人びている所為で、難しい事を話してしまったわね」
「な…!私はもう12だ!子供じゃない」
「ほら、一人称だって…昔は話し方も可愛かったのに。
無理して背伸びする必要はないのよ。子供でいられるのは今だけなんだから」
「それは…!」

コウは大きく声を上げる彼に、少しばかり驚いた様子だった。
彼がこうして声を荒らげるのは珍しい。

「…それは、姉さんを守れるようにって…」

最後の方は殆ど聞こえないほどに尻すぼみになっていく。
しかし、コウはちゃんと最後まで聞き取っていた。

「皆に言われるから守らなければならない。そう思っていない?自分の意思を混同させてしまっては駄目よ」
「違う!これは私の意志だ!」
「………そう」

そう呟き、コウは彼に身長を合わせるようにして腰を折り、そしてその身体を抱きしめる。
少年と呼ぶに十分な年齢の彼は、まだ小さい。
その肩にまで一族の意思が圧し掛かっているのだと思うと、どうしようもなく哀しかった。

「ごめんなさい、クラピカ…」

決して彼の耳には届いてしまわないようにと、最小限まで声を潜めて呟く。
5秒ほど強く彼を抱きしめたコウは、その後何食わぬ顔で再び彼の手を引いた。
先ほどの村を出て行く、と言った空気など、微塵も感じさせない。
いや、あえて話題を戻されないようにと、感じさせないようにしているのだろうか。
見上げなければならない彼女との思考の差は広い。
同じものを見て、同じことを感じられない―――それが、どうしようもなく遣る瀬無かった。



運命は動いて行く。
彼らが、最も望まなかった方向へと。

07.09.24