Topaz 05 後編
溜め息と共に長椅子に腰を降ろす紅。
彼女の視線は包帯の巻かれた左腕へと向けられていた。
「…無茶な運動は禁物…か」
医者からそう言われた。
無茶な運動をすれば、それ相応の痛みが彼女を襲うだろうと、そう宣告されたのだ。
「テニスは無理かー…」
そう呟いた時、ふと視界に影が落ちる。
それに驚いて視線を上げれば、あの時の彼が曖昧な笑みを浮かべて紅を見下ろしていた。
「あの時の…」
「もう治療終わったん?」
「ええ。おかげ様で。お世話になりました」
紅はペコリと頭を下げる。
彼は「どういたしまして」と笑った。
「すみません…学校…遅れちゃいました…よね…?」
「別に気にせんでええよ。連絡入れたら「よくやった!」って褒められたわ」
「あ、そうですか」
彼の声の調子が何だかおかしく、紅はクスクスと笑いを零す。
不意に落とした視線が包帯を掠め、彼女の表情は翳る。
「なぁ、名前聞いてもええ?俺は忍足侑士」
「あ、雪耶紅です。えっと…おしたり…?」
「忍ぶ足で忍足や。珍しい名前やろ?」
空中に漢字を描くように指を動かす忍足。
彼の言葉に、紅は「難しい読み方ですね」と素直に頷いた。
「雪耶さんの漢字は?」
「あ、えっと…。……こうです」
紅はポケットの手帳に自分の名前を書き記した。
それを見て忍足は「おおきに」と頷く。
「ええ名前やな」
「ありがとうございます」
笑みを浮かべて彼に答え、紅はポケットに手帳を仕舞いこむ。
彼は紅から少し距離を置いて長椅子に腰掛けた。
暫しの沈黙の後、忍足が口を開く。
「無理せんでええんちゃう?」
「え…?」
予想外の言葉に紅が顔を上げて彼の方を向く。
忍足からの視線はなく、一方通行の視線が何故か心をざわめかせた。
「雪耶さん、ずっと無理やり笑顔浮かべとる」
「そんな事は…ないですよ」
「テニス、出来へんねやろ?」
直球な言葉に紅は思わず自分の腕に視線を落としてしまった。
普段の日常生活は右手で過ごしている紅だが、本来の利き腕は左。
両利きと言っても過言ではない程度に使えるので問題がないといえば問題はない。
だが、利き腕を負傷したと言う事は精神的に彼女を傷付けた。
「……右手で出来ますから」
「咄嗟に左手であの子を庇ったんやから…利き腕は左やな」
どこか突き放したような彼の言葉に、紅は僅かに表情を歪める。
そんな事はお構い無しに彼は続けた。
「右手で出来ても所詮逆の腕。あんまり期待は出来んやろ」
「……じゃあ、庇わなかった方がよかったって言うの?」
この場が病院の廊下と言う事も忘れて、紅が少しだけ声を荒らげる。
「いいのよ、別に。利き腕でテニスが出来ないだけで…あの子が助けられたから」
言い聞かせるような言葉と共に溢れたそれが頬を伝う。
「助けなかったら…もっと後悔してる…」
「せやな」
漸く彼女の方を向いた忍足の視線は優しかった。
涙を見せないように顔を俯かせ、タオルで目を覆う紅。
そんな彼女の頭を忍足は優しく撫でた。
「溜め込んだら辛いだけやで。今のうちにしっかり泣いとき」
手から伝わる優しさが紅を安心させ、その涙が暫く止まる事はなかった。
「本当に珍しい…」
「あ、雪耶さんの親友さん」
「佐倉悠希よ。この子が人前で泣くなんて…」
電話から戻ってきた悠希が眼にした光景。
目を閉じて静かに寝息を立てる紅と、そんな彼女に肩を貸している忍足の姿だった。
「泣き疲れちゃったのね」
「…みたいやな。まぁ、かなりショックやったと思うで」
「……当然よ。紅の生きがいだから。右手でも十分上手いけどね」
「そうなん?一度試合してみたいなぁ、それは」
起こさないように声を潜めて話す二人。
不意に、悠希が忍足の制服を見て眉を寄せる。
「…氷帝?」
「?せやで?」
「……跡部景吾って知ってる?」
「………それはもう、しっかりと。何や?跡部のファンか?」
「ファンならフルネームの呼び捨てなんてしないでしょ」
「確かに」
納得するように頷く忍足に、悠希は静かに息をついた。
言葉にする事を躊躇うように視線を巡らせた後、静かに言う。
「跡部には絶対に私の事言わないで」
「??」
「……兄貴なの。家から飛び出したから怒ってると思うのよねー…」
「兄貴……妹か!?跡部の!?」
「不本意ながらね」
ふいっと視線を彼から逸らし、彼女は紅の隣に腰を降ろした。
その振動が伝わったのか、紅がゆっくりとその目を開く。
「…ん……悠希…?」
「おはよ、紅。後五分くらいでおばさんが迎えに来てくれるって」
「…お母さんが?連絡してくれたのね。ありがとう」
そこまで話して、紅は自分の身体を起こす。
“起こす”と言う行動をしてから、ふと気づいた。
「!?ご…ごめんなさいっ!!私あのまま寝ちゃって…!?」
「そないに慌てんでもええって。嫌なら押し退けてでも帰っとるわ」
「…ありがとう…ございます…」
彼の肩を借りていたと言う行為も十分に恥ずかしいのに、その前には泣き顔を見られている。
穴があったら入りたいと、切に願う紅だった。
そんな彼女の頭を優しく撫でると、忍足は立ち上がる。
「ほな、俺は帰らせてもらうわ」
「ご迷惑をお掛けしました。本当にありがとうございます」
紅はもう一度頭を下げた。
忍足はそんな彼女を見て少し考えるような行動を見せた後、紅に向かって問う。
「雪耶さん、携帯持っとる?」
「え?あー…はい」
悠希が持っていた鞄を受け取り、その中から携帯を取り出し彼に見せる。
すると、忍足は彼女の手からそれを受け取ってカチカチと操作しだした。
程なくして、それは紅の手に戻される。
「それ、俺の番号とアドレス。また雪耶さんのも教えてな」
にっこりと笑みを浮かべると、忍足はその場から去っていった。
残された紅は携帯を手に固まっている。
「…紅?」
「……うわー…恥ずかしい…。泣き顔と寝顔見られたんだけど…っ」
どうやら思いっきり照れていたらしい。
頬を赤くして慌てる親友を見て、悠希は肩を竦めながら笑っていた。
「ま、お礼と一緒に紅のアドレスと番号も送っておきなさいよ」
「うん、そうする…」
05.06.25