桜花爛漫

夜、珍しく眠りにつこうと布団に横たわった紅は、ふと目を開いた。
妖怪の彼女の前に、夜の闇など無意味。
部屋の中を一瞥した彼女は、そっと布団から出た。

「紅様?」
「結界に妖怪が近付いた」

紅が忌々しげに眉を顰めて呟いた。
その言葉に悠希がピクリと耳を揺らす。
悠希を連れて部屋を出た紅は、例の桜の横を通り過ぎた。

「紅」

背後の声に引き止められ、足を止める。
夜のリクオがそこにいて、急ぐ彼女を不思議そうな表情で見つめていた。
今更、彼の気配に気付かない事に驚いたりはしない。
それは彼がぬらりひょんの血を引いているが故の事だ。

「どうした?」
「北の山に行って来る」
「何があった」

問いかけではない。
彼は即座に状況を理解して、そう確認した。

「結界が反応した。妖怪によって」

それだけを言えば、彼には全てが伝わるだろう。
無視するわけではないけれど歩き出した彼女の背中から、もう一つの足音が追ってくる。
首だけを振り向かせれば、リクオが「俺も行く」と一言告げた。

「北の山の周辺はぬら組のシマだからな」

曰く、好き勝手をさせるわけにはいかないと。
止まらない紅の隣に並んだ彼がそう言った。

「ぬら組の妖怪かもしれないよ」
「そうならお前が気にするわけがねぇ。そうだろ?」

確信している問いかけに、紅は沈黙を返した。
もちろん、彼女は結界に阻まれた妖怪が悪意を持つ者であると確信している。
しかし、察知できない者にそれを理解してもらうのは難しい。
説明するまでもなくそれを理解していた彼に、彼女は心中で笑った。

「急ぐけど…着いてこられる?」
「俺を誰だと思ってるんだ?」

得意げに笑った彼に、そうね、と呟く。
そして、トンと地面を蹴って屋根へと飛び乗り、そこから風のように走り出した。













その場に辿り着いた二人は、唖然とした。
何故ならば、そこには二人が想像していた以上の光景が広がっていたからだ。
ちょっとした林の先にある北の山。
本来であれば、二人が立っている場所は木に覆われている場所だ。
それが、今は四方を見渡す事ができる。
つまり―――林が、山だけをぽっかりと残して全て消え失せていた。

「これは…」

呆気に取られるリクオの横を離れ、紅が山へと近付く。
始まりの場所…上へと伸びる階段の前に立ち、彼女はすっと手を伸ばした。
彼女の手が結界に触れ、まるで彼女の力を吸収するように揺れる。
赤い帯が水面を揺らしたように広がり、山全体を覆ってから消えた。

「…結界は消えてない」

多少力を使ってしまったようだが、それも今の一瞬で補える程度のものだ。
安堵する紅の後ろで、リクオは彼女の結界の強さに驚いた。

―――あの娘の結界が母のそれと同じなら、どんな妖怪にも破れんじゃろう。

祖父が言っていた言葉を思い出す。
どんな妖怪にもと言う部分は過大評価だと思っていた。
多少の効果がある事は認めていたけれど、まさかこれほどとは考えていなかったのだ。

「!」

不意に、彼女が何かに反応した。
リクオが彼女に近付くと、石畳の階段を下りてくる人影に気付く。
それは人の姿をしていたけれど、人間ではなかった。
まるで色を失ったように、全てが白。
ともすれば生きているのかも怪しいと感じるようなその風貌の中で、薄い金の眼だけが存在感を表していた。
ゆっくりと近付き、そしてそっと彼女の前に膝をつく。

「山の妖怪に被害は?」
「妖怪には被害はありません。紅様の結界により山の全てが守られました」
「そう…よかった」

紅が肩の力を抜く。
稲荷神は、彼女からその隣のリクオへと視線を向ける。
切れ長の目が静かに細められた。

「ぬらりひょんの血―――なるほど、そなたがリクオ」
「…俺を知ってるのか?」
「そなたの祖父とは長い付き合いになる」

その付き合いと言うのは「傘下に入れ」「断る」と言ったやり取りなのだが、あえて説明する必要はないだろう。
紅は沈黙した。

「ぬらりひょんによく似た良い眼だ」
「…あんた、じじいが嫌いだったんじゃねぇのかい?」

紅が説明せずとも、北の山との一件は知っていたようだ。
リクオがそう問いかけると、稲荷神はゆるりと頭を振った。

「我がぬらりひょんを拒むのは嗜好の問題ではない。ぬらりひょんは我の主ではないからだ」

好きや嫌いでぬらりひょんを否定したわけではない。
ただ、彼が従うべき者ではなかったと言うだけ。

「白凪(はくなぎ)、この地を荒らした愚か者を見た?」

紅は稲荷神を白凪と呼んだ。
それは、稲荷神が彼女を主と認める際に自らの名を求めたからだ。
白凪と言う名を与え、彼女はこの山の主となった。

「我は見ておりません」
「…そう」
「しかし…これだけは覚えております。その身に染み付いた臭い―――我らと相容れぬ、悪しき女狐の臭い」
「狐…?」

白凪はそれ以上何も答えず、ただ首を振った。
聞くべき事は何もないと判断したのか、くるりと踵を返して歩き出すリクオ。
彼との距離が開いたところで、白凪が「紅様」と彼女を呼ぶ。

「お気をつけください。今宵の妖怪は女狐の僕。この地の結界の存在が、女狐にも伝わりましょう」
「…白凪、それは…」
「女狐に関しては、ぬらりひょんが熟知しております」

そう言うと、白凪は音もなく姿を消した。
何となく自分を見送る気配を感じつつも、紅は山に背を向けて歩き出す。

「詳しく聞かなくて良かったのか?」
「白凪は神だから。あまり深く関わる事は出来ないよ」
「…まぁ、お前が納得してるなら構わねぇが…」

そう言って歩き出す彼。
紅は一度、山を振り向いた。

「女狐…とは誰の事でしょう」
「さぁ…。総大将に聞いてみるしかないね」

悠希の言葉に肩を竦めてから、紅はリクオに追いつくよう足を速めた。

10.04.24