蒼と白の縁を結ぶ
  薄桜鬼  08

あの日を忘れたことなどない。
しかし、鈴蘭には例の鬼よりも千鶴の一件を優先させた。
あの時の感覚は、紅にとっては触れてはならない禁忌にも思えた。
故に、知ることを恐れていたのかもしれない。
そこに都合よく転がり込んできた千鶴と言う対象に注視することで、目を背けていた。

「!」

紅がその人に気付いた時には、既に相手からも捉えられていた。
大柄な男は立ち竦む紅の元へと迷いなく歩を進める。

「天霧と申します。…共に来てもらえますね」

否と答えさせることを許さないその言葉に、逃げ場はないことを理解して素直に頷いた。
体格の差から考えられる速度差があれば逃れることはできるかもしれない。
しかし、それは問題の棚上げに過ぎないのだとわかっていた。

こちらへ、と促されるままに、慣れぬ路地を進む。
案内されたのは、恐らくは長く続いているであろう老舗の宿だった。
紅たちが借りる宿とは方角的には対極に近い位置関係だ。
近付くにつれて感じるその気配に、少し前から心臓の音がうるさい。
気を抜くと止まってしまいそうな足取りは重かった。
紅がここにいることは既に相手にも気取られているだろう。
これ以上近付くことが恐い。
自分はどうなってしまうのだろうか、自らの感情を制御できるのだろうか。
不安ばかりが押し寄せてくる中、天霧は先を急かすこともなく紅を見つめた。
例えば紅が一人でこの場所に立っていたのであれば、この建物に足を踏み入れられなかったかもしれない。
それでも紅が一歩を踏み出すことができたのは、他者の目があったからに他ならない。
一族を統べる長として、無様な姿を晒すことは許されない。
紅は一度だけ深く息を吐き、きゅっと唇を引き締め、視線を上げた。

「(―――私は蒼龍。鬼の本能を忌み嫌おうとも、“鬼”の矜持は忘れない)」

自らに言い聞かせるように言霊を紡ぐ。
眼差しが強い意志を持ち、凛とした空気を纏う。
その変化は天霧の目にも明らかであり、彼は言葉なく瞠目した。

「(なるほど…この女鬼であれば風間の目に留まるのも頷ける)」

先ほどまでの頼りない空気を一掃し、そこに佇むのは誇りを忘れぬ一人の女鬼だった。











ここから先はどうぞおひとりで。

天霧に案内された襖の前、紅は一度大きく息を吸う。
彼の手によりすらりと音もなく開かれる襖を抜け、その姿を目に映す。
最早、これを否定する術などないのだろう。
心臓がどくりと大きく脈打ち、本能が渇望を訴える。
いっそ清々しいほど正直な自らの欲求に、脳の一部が麻痺したような冷静さを感じた。

「鬼門の一族が長、蒼龍の雪耶紅と申します」

迷いの動作もなく畳の上に座し、深々と腰を折る。
対峙するこの鬼が格の低い鬼であることなど、万が一にもない。
鈴蘭からの最終的な報告は得ていないけれど、この鬼は恐らく。

「―――西の鬼の頭首、風間千景だ。…楽にしろ」

頭上から降る声に、やはりと納得する。
ゆるりと頭を上げ、見上げた先にある赤い眼が紅を見下ろした。

―――美しい、と思う。

これがこの鬼の本性ではないとわかっているけれど、それでも尚、そう感じた。
あれほどに騒めいていた身体の内側が、驚くほど穏やかだ。
この鬼を認知し、同じ空間を共有することが、一つの違和感も残さずストンと嵌まり込む。
視線で促され、風間の前に用意された席へと移動する。
茶を用意した女将が姿を消して、少しの間を置いた後。

「―――鬼門を、ご存知ですか?」
「…風間の里で保護した記録が残っている」
「そうでしたか…その代の蒼龍に代わり、お礼を申し上げます」

そう言いながら、改めて頭を低くする。
一族の者が見れば、蒼龍が安易に頭を下げるべきではないと言われるかもしれない。
紅にとっては相手に礼を尽くすことに上も下もなく、この行動は当然のものであった。
しかし、彼にとってはどうだろうか。
そんなことを考えながら上げた視線の先、紅を見つめる眼差しに嘲笑も嫌悪もなかった。

「(―――なるほど…西の白月の一族は、良き頭首に恵まれているのね)」

同じく一族を導く者として、価値観の通じる相手であることに安堵する。
それと同時に、胸の奥でじくりと痛む感情を悟った。
紅は鬼門の長であり、彼もまた彼女と立場を同じくする者。
欲しいと―――本能が理性の柵を越えて手を伸ばしそうになるほどに渇望している。
けれど、それを理解すればするほどに、望めない相手であることを思い知る。
他の雑念をすべて取り払ってしまうには、多くを背負いすぎていた。

「一族の里はどこだ?」
「―――東に」
「…東、か…遠いな。何故、鬼門の長が京にいる?」

詳細な位置を告げずに答える紅に追及はせず、質問を変える。
核心ともいえるそれに、紅は少し間を置いた。
言葉を選んだ―――というべきかもしれない。

「京に、旧い白月の一族がいると―――あぁ、失礼いたしました。我々は、あなた方を白月と呼んでいます。
あなた方と種を同じくする旧家の鬼の一族があると聞き、お目通りを願うべく」
「お互い、今まで関わり合いを避けてきた…と思っていたが」
「………協力も、検討すべきかと―――お互いに」

深くは語らない。
風間がどのように考えているのか、悟るにはまだまだ時間が足りない。
全ての手の内を明らかにすることなく、けれども僅かな片鱗だけを見せて。
全てを見透かすような赤い眼に、それ以上視線を合わせ続けることができずに目を伏せる。

「―――紅、と言ったか」

近いところで聞こえた声にハッとするよりも早く、伸びてきた指先が紅の顎を取る。
ぐい、と抵抗を許さない強さで引き上げられ、否応なく交わる視線。
指から彼の熱を感じる。
鼻先に彼の吐息を感じる。
聞こえるはずのない拍動を聞き、眩暈がした。

「触れないで…!」

ザワリ―――自身の内なる鬼の本性が膨らむのを感じ、咄嗟に彼の手を払って距離を取る。
その反動で紅の身体が畳の上に投げ出されるも、そのままの姿勢で身を小さくする。
身を隠すように豊かな乱れ髪がその背を覆うのを見下ろしながら、風間ははっきりと感じ取っていた。
頭の芯を痺れさせるような、鬼の匂い。
自らの肩を抱く彼女の細い腕を取り、引き寄せるようにしてその両腕を畳へと縫い付ける。
そうして見下ろした涙に濡れるその眼に、ぐらりと理性が揺れた。

「………それが、鬼門の本性か」

その黒髪に美しく映える1本の角、薄く開いた赤い唇から覗く鋭い牙。

「お願い、離して…っ」

いくら鬼が人間よりも様々な点で優れていても、男女の差は埋められない。
必死に腕を解放してもらおうともがく紅だが、そんな抵抗などないように風間の姿勢は変わらない。
彼が触れる手首が熱い、近すぎる匂いに眩暈がする。
飢えた紅にとって、この距離は毒以外の何物でもなく、喘ぐように吐息で熱を放散する。

「離して!あなたを食べたくない…!!」
「…“食べる”?あぁ、そうか…鬼門は人食いの鬼だったな。飢えた眼の理由はそれか」

そう指摘され、かぁ、と頬を赤らめる。
このままこの距離を保てば、蒼龍の血が「至上の生気を食らえ」と騒ぎ出す。

「わかっているのなら―――」

その時、紅は近付く気配に気づいて瞬発的に腕に力を込めた。
ほんの少しだけ解放されたそれを使って風間の身体を突き飛ばす。
力加減なしのそれに彼の身体が後方へと動き、それと同時に二人の間を何かが過ぎる。
空を切ったそれが、タンッと畳に突き刺さった。
それが苦無だと認識するが早いか、紅の視界がぶれるのが早いか。
口元に布を押し当てられ、転がった煙玉が室内で弾けるのを最後に、紅の身体はその場から消え去った。

17.01.03