親愛なる君に捧ぐ
Beast Master And Prince 01
昔から考えなかったわけじゃない。
物心ついた時には、“私”と言う存在はこの世界に組み込まれてしまっていて。
そこで生きているのだと自覚した時の感覚を、どう表現すればいいのか。
喜びではない。
怒りも違う。
哀しみでもない。
楽しみであるはずもなく。
言うならば―――絶望、これが一番近い感情だった気がする。
それに気付いたのは、私が何度目かの誕生日を迎えた日。
道端に倒れていた黒猫を拾った事が、全ての始まりだったのかもしれない。
「…シルビオ」
名を呼べば、行儀悪くも習慣となっているテーブルの上での食事を中断し、金の目をこちらに向ける黒猫。
初めて出会った時の痩せて汚れた身体はどこにもなく、艶やかな黒い毛並みが窓からの風に揺れる。
胸元にふっさりと、そして額に少しだけある白い毛並みも、どこまでも真っ白だ。
「何だよ、人の顔をジロジロと」
「…シルビオ」
「だから、何だよ?」
「…はぁー…あなた、シルビオなのよねぇ…」
溜め息混じりにそう告げれば、彼は不機嫌に尻尾でテーブルをばんばんと叩く。
「あのさ。人をジロジロと凝視したまま溜め息混じりに意味のわからない事言うの、やめてくれない?」
「…ええ。ごめんね」
「ったく…何なんだよ。この名前はあんたがつけた名前だろ?今更嫌になったとか言わないでくれよ」
そう、何を隠す必要もなく、この名前をつけたのは私だ。
胸元の白い毛と、額の模様が記憶の中にある“彼”を思わせたから…その名前をもらった。
「ねぇ、シルビオ?この国は何て名前だっけ…」
「カトライアだろ?」
「そうよね、カトライアなのよね…。大陸の各地を流離って、辿り着いた場所…カトライア王国………はぁ」
最早、溜め息しか出てこない。
日に日にこの世界の事を実感して、胸に鉛を飲んだように気分が落ち込んでいく。
「なぁ、今日はどうしたんだよ?熱でもあるのか?」
食事を中断したままテーブルを横切った彼が、私の前にちょこんと座る。
そして、手…前脚と言うべきか、それを持ち上げ、私の額にぺたりと触れた。
瑞々しい弾力の肉球が額に当たっている。
「…熱はなさそうだな」
「うん、大丈夫大丈夫」
「…大丈夫には見えないけどな」
案じてくれているらしい彼に、私はそっとその頭を撫でた。
短い毛並みは柔らかく、滑らかな感触を手の平に伝えてくれる。
こうして動物に触れていると、心が落ち着いてくるのを感じた。
彼も私の心の変化を感じ取っているのか、文句も言わずにされるがままだ。
やがて、彼を解放した私は喉の渇きを潤すようにグラスを手に取った。
「そう言えば、今日はローゼレット城の庭で面白い子供を見つけたんだ。何か銜えてたけど…笛かな、あれ」
「っげほ!!」
「おいおい。大丈夫か?」
タイミングよく飲み込んだ水が気管支を直撃した。
激しく咳き込む私に、シルビオの呆れた視線が向けられる。
「へ、へぇ…あなた、ローゼレット城に遊びに行ってるの?兵士に咎められない程度にしなさいよ」
「それはわかってる。でもあそこは動物も多いし、俺みたいな猫一匹くらい誰も気にしないって」
「それで…その子がどうしたの?」
「たぶん笛だと思うんだけど、それを必死に鳴らそうとしてるんだけど、全然音になってなくてさ」
あれは何をしようとしてたんだか、なんて軽い口調で思い出しながら笑う彼。
中断していた食事の続きを始める彼を横目に、私は心中で幾度目かの溜め息を吐き出した。
「あ、私も思い出したわ」
話題を変えるように手を叩き、席を立つ。
ごそごそと今日の買い物の荷物を漁り、漸く目当てのものを見つけた。
テーブルに戻る頃にはシルビオも食事を終えたらしく、不思議そうな目で私の動向を見つめている。
「…暴れないでね」
本当は、彼にこれを渡すのを躊躇った。
だって…これを渡してしまえば、シルビオが“彼”だと言う事を否定は出来なくなる。
けれど、見つけた瞬間には手にとって、迷いなく購入してしまったのはきっと運命なのだろう。
どれだけ心の中で否定しようと、この世界は変わらない。
「よし、できた。どう…かな?」
「これ…」
「今までは大丈夫かなと思ってたんだけど…最近よく外に出掛けるようになったでしょう?
野良じゃないんだってわかるように…首輪の代わり」
シルビオの首元に巻いた緑色のスカーフと、彼の目と同じ色の鈴。
何を言われようと…運命を感じてしまって、それに逆らえなかったのだから、仕方ないのだ。
「…気に入らない?」
心の中で言い訳をしていた私は、自分を見下ろして黙り込むシルビオに気付く。
もしかして、気に入らなかっただろうか―――そんな不安が脳裏を過ぎった。
「いや…すっげー気に入った」
そう言った彼はふいっと顔を背けてテーブルを降り、お気に入りのソファーへと歩いていく。
ぴんと立った尾を見て、ふと気付く。
「…素直じゃないなぁ」
猫に満面の笑顔でお礼を言えとは言わないけれど。
別に、もう少し喜びを表現してくれて構わないのに、と思う。
クスリと微笑んだところで、キィン、と耳鳴りに似た音が室内に響いた。
慣れた動作で腰に提げた手鏡を外し、持ち上げる。
程なくして自分が消え、別の人物がその鏡に映った。
「こんばんは、ゲルダ」
『ええ、こんばんは。早速だけど、用件を伝えるわ。
薬の最終確認が終わったから、いつでも取りに来ていい―――彼女からの伝言よ』
「そう…早いわね」
『…こんな事、私が言うべきじゃないってわかっているけれど…これも、呪いである事に違いはないわ』
考えるべきよ、と彼女は神妙な表情でそう告げた。
見た目の印象と違って、優しいゲルダ。
彼女の言葉の意味するところを理解しているからこそ、素直に頷く。
「ありがとう、ゲルダ。明日にはそちらに行くわね」
笑顔でそう伝えて、こちらから魔力の繋がりを切ってしまう。
そして、ソファーのところから私を窺っていたシルビオを見た。
「…と言う事よ。薬は…完成したわ」
「そう」
「ゲルダも言っていたけれど、これは呪いよ。副作用がない事はちゃんと確かめてもらっていると言っても…」
「いや、俺はもう…決めたんだ」
迷いも躊躇いもない。
彼の目が、その言葉以上に雄弁に語っていた。
私は静かに息を吐き出し、わかった、と頷く。
「明日…彼女の家を訪ねて、受け取ってくるわ」
物語が始まる。
覚悟を決めよう―――それが正しい選択かどうかはわからないけれど。
「ちょっと、シルビオ!!いるんでしょう!!」
「何だよ、騒がしいな」
「いいから開けなさい!!」
「うるさいな…ほら、開けたよ」
「彼女に何があったの?」
「…は?」
「私にこれを届けてくれって…そう言って、彼女が消えたわ」
「…消えた…?」
「とても思いつめた顔をしていたから、私も心配―――」
「んだよ、それ…!消えるなんてそんな事、一言も…」
「シルビオ…」
「…ゲルダ、薬をくれ」
「え、ええ…いいの?」
「昨日もあいつに聞かれた。俺はもう決めた。拾ったのはあいつなのに、今更捨てるなんて許さない」
10.08.14