廻れ、
- 廻 れ 、 廻 れ 。 時 空 よ 、 廻 れ -
-- 番外編:まつ 摺上原双竜陣05 --
迫り来る鉤爪を前にしても、紅は恐怖に視界を閉ざしたりはしなかった。
漠然とした…しかし、確信染みた安心感が彼女にそうさせていたのかもしれない。
その想いを裏切る事もなく、視界を染める鮮やかな青。
背負った月の文様が、紅を見下ろした。
熊から彼女を守るように身を滑らせた政宗は、一刀流でその巨体を吹き飛ばす。
腕に僅かな痛みすら感じさせたその体重に、彼は少しばかり眉を顰めた。
それでも刀を返し、峰打ちに留めたのは、紅の躊躇いの意味を理解していたからなのだろう。
「怪我はないな?」
「…はい」
彼は向こうの方で背中から着地した熊を見届け、紅を振り向く。
見た目にも怪我がないことを悟り、彼は彼女の肩を叩いた。
それから、小十郎達が居る方へと彼女の背中を押す。
「この力比べはお前には荷が重い。交代だ、紅」
「…政宗様も、お気をつけて」
まつだけならば心配はしないけれど、あの動物達は中々だ。
彼女が言わんとしていることがわかったのか、政宗は口角を持ち上げる。
それを見届け、紅は邪魔にならないようにと小十郎の元へと歩いた。
「身を挺して妻を守る…素晴らしき夫にございます」
「あんたの旦那はどうだ?」
「犬千代様に怪我をさせるわけにはいきませんわ。私一人でお野菜を手に入れてみせまする!」
「…そうかい。ま、野菜くらいはいくらでもくれてやる。その代わり、俺を楽しませてくれよ?」
政宗はニッと挑発的な笑みを浮かべ、咆哮と共に向かってくる熊と対峙する。
小十郎の元へと到着すると、やや心配そうな表情の目が紅を見下ろした。
「お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
小十郎の言葉にそう答えてから、彼女は脇に置いてある籠一杯の野菜に苦笑を浮かべた。
政宗の考えそうな事だ。
「紅殿!」
「どうしました?」
「五郎丸を斬らずにいてくれたこと、誠に感謝する!」
駆け寄ってきた利家はそう言って頭を下げる。
当主が軽々と頭を下げるべきではないだろうと思うのだが、それが彼らしいと思ってしまった。
頭を上げてください、と言って、彼女は小さく微笑む。
「あの五郎丸は、裏庭で母親に見捨てられた所をまつが拾って育てた熊なのだ」
「…大事な子なんですね」
「うむ!あれが死ぬとまつが悲しむだろう」
こっちは死なせまいとして怪我を負いかけたのだが、その辺りは抜け落ちているのだろうか。
どこか呆れた風に肩を竦めた紅は、ふと小十郎と視線が絡む。
彼の方も同じような事を考えたようで、互いに浮かべたのは苦笑の表情だ。
既に意識が野菜やまつへと向いてしまっている利家を咎めようとは思わない。
どちらともなく、紅も小十郎も、政宗とまつの戦いへと視線を動かした。
手を抜いたとしか思えないほどにあっさりと決着する。
どちらにも大きな怪我はないようで、紅は小さく安堵の息を零してから二人に駆け寄った。
彼女が動き始めるのと同じくらいにまつもこちらに向けて走ってきたため、途中ですれ違う。
振り向いて走り去った先を見てみれば、嬉しそうに利家に抱きつく彼女の姿が見えた。
『年がら年中春だよ、二人が一緒だと』
苦笑しつつもいい表情でそう言っていた慶次の言葉を思い出す。
春と言うか、夏と言うか…とにかく、夫婦仲はとても円満のようだ。
立派な白菜を片手に喜ぶ姿は実に男前だが、それでも利家の傍に居る時のまつは可愛らしい。
彼女の方が年上なのだから失礼かもしれないけれど、そんな事を思ってしまった。
紅はクスクスと笑いつつ、政宗の元へと足を動かす。
「お怪我はありませんか?」
「あぁ」
「そうですか。では…楽しめましたか?」
そんな紅の問いかけに、政宗はすぐに明確な答えを返さなかった。
ただ、僅かに口角を持ち上げる。
「動物相手に梃子摺ったのは初めてだな」
動物だからこそ、殺さずに制する方法を考えなければならなかった。
人相手だったならば慣れているので簡単なのだが。
「まるでムツゴロウ王国でしたね」
クスリと笑いながらそんな事を呟く。
あの後、まつによって猪と熊、鷹に土竜を見た。
動物使いかと思うような攻撃の数々には、何だが笑いすら零れてきてしまったのだ。
政宗がやられる筈がないと言う確信があったからこそなのだろうけれど。
ムツゴロウ?と疑問符を浮かべる彼に、詳しく説明する事無く曖昧に誤魔化す。
説明してもいいのだが、実の所を言うと彼女自身もそう詳しくはないのだ。
「あ、大変」
不意に、紅がそう声を上げた。
とても焦っているような声色ではなかったけれど、やや急を要することのようだ。
彼女は政宗の元を離れ、少し遠い位置に手綱を結わえていた馬の元へと駆け寄っていく。
そして、今しも野菜を持ったまま馬に乗ろうとしている二人を呼び止めた。
「まつさん!忘れ物です!!」
戦が終わった場所に長居しないと言う姿勢は構わない。
だが、昨日忘れていった馬を今日も忘れられたら困る。
足早に馬の手綱を引いて駆け寄った紅は、まつと何かを話しているようだった。
少し離れている政宗の位置からはその声は聞こえない。
けれど、紅がどこか楽しそうだと言う事は分かった。
そして、まつが何やら懐を探り、取り出したものを紅に握らせる。
掌を見た彼女は僅かに頬を染め、しきりに首を振って返そうとしていた。
恐らく、今回の礼だとでも言われたのだろう。
ほぼ押し切るようにそれを渡し、それぞれの馬に跨る。
そして気を利かせた小十郎によって包まれた野菜が後ろに結わえてあることを確認し、馬の腹を蹴る。
颯爽と駆け出した彼らは自分が破壊した門を通って、やがて見えなくなった。
まるで、散らかすだけ散らかしてさっさとどこかへ行ってしまう台風のようだ。
それを見送った紅は、再び政宗の元へと戻ってきた。
両手を握り締める様は、まるでその中にあるものを隠しているようにも、大事にしているようにも見える。
「…何を渡された?」
そう問うと、彼女は少し困ったように眉尻を下げた。
そして、ゆっくりと指を開いていく。
彼女の掌に乗っていたそれを見下ろした政宗は、暫く沈黙したまま口を開かない。
「…無用の長物だな」
「…ですね。どうしましょうか」
「悠希にでも送ってやれ」
「……それも失礼でしょう」
あそこも夫婦仲は円満ですから。
そう言って笑い、御守の上に刺繍された文字を指先でなぞる。
「…とりあえず、いただいたものですし…持っておくことにします。とてもご利益がありそうですし」
そう告げて、懐へとそれをしまいこむ。
「まぁ、好きにしろ。―――帰るぞ」
歩き出す政宗に続き、はい、と返事をしてその後を歩き出した。
「あら、太郎丸」
見覚えのある鷹が紅の部屋の庭へと降りてくる。
5羽の鷹は、全員が協力して何かの包みを支えていた。
それを受け取ると、各々が庭先で翼を休める。
長旅に疲れたのだろう。
そんな彼らの様子にクスリと微笑んでから、楓に水と餌を持ってくるように頼む。
そして、受け取った包みを解いた。
「…“四国で新鮮なカジキマグロが手に入ったのでお野菜のお礼に差し上げます。”」
初めの挨拶の部分をさっと読み、内容と思しき箇所を読み上げる。
手紙と共に入っていたそれには、沢山の氷と共にカジキマグロの切り身の塊が入っていた。
「…ん?四国?」
首を傾げた紅の元に、悠希からの手紙を持った闇雲が帰ってくるのは、それから5分後の事だ。
08.02.28