Babyシリーズ
-悠久に馳せる想い- 番外編

トタトタトタ、と足音が聞こえてくる。
自室で本を読んでいた紅は、近づいてくる足音に口角を持ち上げた。
悠希と一緒に遊びに行く、と言ってから既に3時間。
そろそろ帰ってくるだろうと考えた矢先に聞こえた足音に、自然と表情が穏やかになる。
読んでいた分厚い本に栞を挟み、机の上に置いた。
窓から吹き込んできた風がカーテンを揺らし、紅の元までたどり着く。
足音はどんどん大きくなってきていた。
10、9、8…心の中でそうカウントを始め、それが0になるのと同時に、部屋のドアがバンッと開く。

「母さん!」
「お帰り、暁斗」

紅はにこりと微笑んで息子を迎え入れた。
だが、彼の姿を見ると同時に、軽く眉を顰める。
「暁斗…物を盗ってきちゃ駄目って教えたでしょう」
況してや、今彼が抱えているのは―――まだ歩くことは出来ないであろう赤ん坊だ。
息子を叱る親のように、紅は暁斗と向き直る。
違う、と首を振った彼が上手く説明できずにいると、今まさに部屋に入ってきた悠希が口を開いた。

「佐倉様。暁斗様が盗みを働いたわけではありません。この赤子は空から落ちてきました」
「悠希……あなたも冗談が言えるようになったのね…」

魔界ならばまだしも、人間界でそんな事があってなるものか。
信じられなかった紅は、きょとんとした表情で悠希を見る。
悠希は首を振った。

「悠希は佐倉様に偽りを述べたりはしません」
「…そうね」

思い出したように頷く紅。
たとえ冗談だったとしても、悠希が紅を裏切ることはない。
そんな風に嘘を教えたりもしないのだ。
と言うことは、悠希の言っていることは事実と言うことになる。

「落ちてきた…ね」

赤ん坊との体格の差はそれなりにあるけれど、暁斗もまだまだ少年だ。
少し不便なのか、何度も抱きなおしている様子を見て、紅は彼からその赤ん坊を受け取った。
暁斗がこのくらいの頃を思い出し、少し懐かしく思う。

「母さん、こいつ…俺のこと“お兄ちゃん”って言うんだ!俺の妹!」
「…まだ言葉は話せないと思うわ」

「あー」、「うー」と意味を成さない音を発しているだけの様子を見る限り、それは間違いない。
やや興奮気味の暁斗に言い聞かせるようにそう答える紅。
しかし、彼は勢いをそのままに首を振る。

「本当に言うんだって!俺の妹なんだ!」
「そうは言っても…まだ妹はいないはずだけど…」

困ったようにそう呟いてから、紅は腕の中の赤ん坊を見る。
じっと見つめてくる丸い目を見つめ返していると、『声』が聞こえた。

『おかあさん、いつもとかみがちがうね』

はっきりと頭の中に伝わってきたそれに、紅は思わず目を開く。

「…………………悠希。蔵馬を呼んできてくれる?」
「そう言われるだろうと思い、帰りに蔵馬様の所に寄ってきました。
すぐに行くと言っていましたので、もう間もなくいらっしゃるかと」

悠希の言葉が終わるのと同じくらいに、呼び鈴が鳴った。
どうやら、暁斗よりも遅れて帰ってきたのは、彼の家に寄っていたことが理由のようだ。
良いタイミングだ、と思ったところで、彼女が動くよりも先に悠希が部屋を出て行く。
間違いなく蔵馬を出迎えに行ってくれたのだろう。



程なくして、蔵馬が紅の自室に顔を出した。
ベッドに腰掛けた彼女の腕に抱かれた赤ん坊を見て、軽く表情を顰める。

「…まずは状況を説明してくれ」

暁斗に向かってそう言った蔵馬。
その役を任された暁斗は元気にこう答えた。

「俺の妹!」

蔵馬の眉間に皺が一筋追加されたのは言うまでもない。














凍りついた空気を和らげるべく奮闘したのは、一秒でも早くその空気を逃れたかった暁斗だ。
身振り手振りを交え、必死に状況を説明した結果、蔵馬は3分ほどで大体の状況を把握した。

「念信か…」

その場の空気もいくらか穏やかになった頃、蔵馬がそう答えた。
赤ん坊は彼の手に移っている。
試しに妖狐の姿に戻ってみたところ、赤ん坊が必死に蔵馬に向かって手を伸ばし始めた。
『おとうさん、おとうさん』と繰り返しながら伸ばされる手を邪険に扱うこともなく、紅の腕から赤ん坊を受け取る。
ご機嫌の様子で蔵馬の髪を握り締めているその子に、紅は軽く肩を竦めた。

「どうやら、間違いはなさそうね」
「そうだな。覚えがないところを見ると、未来から来たのか…」
「恐らくね」

すぐに納得できるのは、時空を操る妖怪を知っているからだ。
それが原因かどうかはわからないけれど、それに間違いはないのだろう。

「じゃあ、こいつ俺の妹?」

本当に?と目を輝かせる暁斗。
期待に満ちた目を見て、紅は暁斗を抱き上げた。
先ほどまで赤ん坊を抱いていたので、暁斗が随分と大きく感じる。
成長したんだな、と思うと、感慨深いものがあった。

「そうね…いずれ会う妹、ってことで間違いはないと思うわ」

親子の血の繋がりがあると、念信はとても簡単にできてしまう。
暁斗ですら、この赤ん坊と同じ位の頃からいつの間にか念信を使っていた。
その為に、紅はあまり子育てで苦労していない。
相手の言うことを理解するのもこちらの思いを伝えるのも、とても容易かった。

「それにしても…未来では娘がいるのね…」

二人目など考えていなかった紅には、そこが不思議だった。
いずれは暁斗も自分の手を離れていく。
長い妖怪の寿命の中でもう一人くらい子供がいても、何もおかしくはない。
一度に何十という子供を生む妖怪もいるのだ。
それを考えると、人間と似たような出産方法をとっている妖狐は、子孫繁栄には効率が悪いといえるだろう。
まだ成長期で、これから大人に向かって変化していく暁斗を「兄」と認識している。
ということは、そう遠くない未来に、この娘が生まれるというのだろうか。

『おにいちゃん』

自分を呼ぶ声が聞こえ、暁斗は顔を上げた。
そちらを見れば、妹が自分に向かって手を伸ばしてきている。
暁斗はどうしようかと蔵馬を見上げた。
彼は何も言わずに頷き、暁斗に赤ん坊を差し出す。
やや戸惑いつつも、暁斗は妹を受け取った。

『またあおうね。まってるからね』

赤ん坊の声が聞こえた。
同時に、彼女がずっと片手で握り締めていた赤い石…絳華石が、赤く輝く。
徐々に輪郭がぼやけだす妹に、暁斗が泣きそうな表情を見せていた。
絳華石が、彼女を本来の時代へと呼び戻そうとしているのだ。

発動をとめることもできるけれど、紅は黙ってその様子を見つめる。
暁斗が悲しむのは本意ではないが、この子はこの時代の娘ではない。
未来で待っている自分たちの元へと送り返してやらねばならないのだ。
未だに最後の一線を越えるには少し力が足りないらしい絳華石の反応に、紅は意識を集中した。
そして、時を越えるのに十分な妖気をその絳華石に送り込む。
許容量に達した手応えを感じるのとほぼ同時に、赤ん坊が暁斗の腕の中から消えた。




たとえ様のない虚無感に襲われたのか、暁斗はじっと自分の手の平を見つめる。
しかし、ふと何かを決心したようにぎゅっとそれを握り締め、それから紅と蔵馬を見た。

「俺!俺も妹に会いたいから!」

そう言うと、彼は二人が何かを言う前にくるりと踵を返し、ドアに向かって駆け出す。
途中、床に座って状況を見守っていた悠希を抱き上げて「夕飯いらない!」と言って出て行ってしまった。
残された二人は、暫く沈黙してから顔を見合わせ、一緒に笑い出す。

「…励むか?」
「何を言ってるの。あなた、まだ学生でしょう?」

くすくすと笑ってから、蔵馬の首に腕を絡め、その頬に軽く口付ける。

「卒業したら考えてもいいわ」

彼の耳元へと唇を寄せ、笑い声を含ませた楽しげな声色でそう告げた。

08.05.18