寄り添う二人
-悠久に馳せる想い- 番外編

ふわ…と窓際のカーテンが黒板を消し去る。
そのほんの僅かな時間に誘われるように、蔵馬は窓の外に視線を向けた。
グラウンドから響く元気の良い声は他のクラスのもの。
その中に、これだけの距離を物ともせずに一際目を惹く人物が居た。
彼女の存在を捉えると、彼は口角を持ち上げる。







「じゃあ、この問題を…南野に解いてもらうか。………南野?」

教師が重ねて自分を呼ぶ声に、蔵馬ははっと我に返る。
窓の外に向けていた視線を教卓の方へと戻せば、自身を見つめるクラスメイトの視線に気づく。

「あ、すみません」
「どうした?具合でも悪いのか?」

そう問われるのは彼の学力や素行故のことなのだろう。
内心で苦笑を浮かべ、彼は曖昧に笑む。
ふと、目線だけをグラウンドに戻せば先程まで見ていた彼女が建物の方へと歩いてきているのが見えた。

「…先生、少し気分が悪いので保健室に行っても…」
「あぁ。構わないぞ。保健委員は…」
「大丈夫です。授業を続けてください」

教師の声を遮るようにして蔵馬は席を立つ。
保健委員、と言う言葉に嬉しそうな反応をした女子が途端に残念そうに口を尖らせる。
あわよくばお近づきに。そんな彼女の思いは一瞬のうちに砕かれた。
教室から出るなり彼は迷うことなく廊下を進む。





何度目かの廊下を曲がった。
その時、軽い衝撃と共に彼女の慣れた香が鼻腔を擽る。

「っと。ごめんなさい………って、秀一?」

咄嗟でも学校内の呼び名を忘れない辺り、彼女は油断がない。
流石だな、と感心の声を心のうちで上げながら、蔵馬は彼女に微笑んだ。
そして彼女の服装に疑問を浮かべる。

「あれ?さっきまで体操着だったよな…?」
「着替えたのよ。今日は体育な気分じゃないし」
「サボり?」

クスクスと笑いを含ませながらそう問いかければ、彼女は得意げに口角を持ち上げた。

「優等生は気分が悪いとサボりにはならないのよ。…あなたと同じで、ね」
「…よくお分かりで」
「わからないわけないでしょう?」

片腕に下げていた体操着の入った鞄を持ち直し、紅は自身の教室へと歩き出す。
その隣を歩きながら蔵馬は問いかけた。

「今からどうするの?」
「帰る。今日は暁斗の件でコエンマにも呼ばれているの」
「…初耳なんだけど」
「言おうと思ったけど秀一が居なかったから」

今日は生徒会の仕事があるからと、彼女とは別に登校していた。
それ故に後から来た蔵馬と会う時間がないままに今まで来てしまったのだろう。
誰も居ない廊下で声を潜め、彼らは言葉を交わす。

「俺も行こう」
「…あなた、学校は?」
「自主早退。試験も近いから無理は出来ないしね」

にこりと笑う蔵馬を止められる者など、この場には居なかった。
唯一彼を止める事の出来る紅にその意思がないのだから当然と言えば当然のことだろう。

「じゃあ…私は荷物を取ってくるけど…」
「うん。俺も一旦教室に戻るよ。先生の許可をもらわないと」
「…玄関の所で待ってるわ」

満面の笑みで言う言葉ではないだろうという言葉を飲み込み、紅はそう告げる。
この学校では酷く有名な二人が同時に早退とあれば周囲が噂する内容は自ずと限られてくる。
隠すつもりはないが、また周りが騒がしくなるな、と紅は苦笑を浮かべた。
しん、と静まり返った教室には、まだ授業が終わっていない所為か誰も居ない。
否、居ない筈であった。

「あれ?雪耶…?」

ガラッと教室の扉を開くと、居るはずのないクラスメイトが机に倒していた上体を持ち上げた。
彼は紅をその目に映すと酷く驚いた表情を浮かべる。

「今って体育だよな?」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「あ、そっか。んで?雪耶はどうしたんだよ?」
「早退」

短く答えて自身の席へと戻り、紅は机の中から課題が出ていた分の教科書だけを鞄に押し込む。
残りは重くなるので持ち帰らなくても問題はないだろう。
予習の必要のある教科がなかったかを考えていた紅の耳にガタンと言う椅子を動かす音が届く。
それが誰によっての音かはわかっていたが、紅はあえて普通の反応を取るために振り向いた。

「何か用?」
「調子悪いのか?」
「…大した事はないわ。じゃあね」

鞄を持ち上げて肩に引っ掛けると、紅はくるりと扉の方を向く。
だが、一歩踏み出した彼女は否応なしにその足を止めさせられる。

「…何?」
「ちょっと話があんだけど」
「………体調が悪い人を引き止めてまでするような大事な話?」
「少なくとも俺にとっては、な。それに、サボりなんだろ?」

彼女を引き止める手を弱めるどころか強く握り締めて彼は答える。
その真剣な眼差しに紅は溜め息を一つ零した。
そして諦めたように彼に向き直る。

「手短にお願い」
「…俺、雪耶の事好きなんだけど」

少しばかり躊躇ったように思えたが、意外にもすんなりと彼は言う。
紅は驚くでもなく彼の顔を見つめなおした。

「申し訳ないけれど。私、恋人が居るから」

実際には夫である上に子供も居るのだが、流石に学生と言う立場上それを言うわけにもいかない。
紅の言葉に彼は驚いた風でもなく「知っている」と頷いた。

「でもさ、一応な。俺に変える気はない?」
「ないわ。今までもこれからも、私が好きなのは彼だけだから」
「そんなに南野が好き?」
「野暮なこと聞かないで欲しいわね」

呆れた風に首を振りつつ溜め息を漏らす。
こうしている間にも秒針は時を刻んでいるのだから、早く解放して欲しいものだ。
そんな考えが表情に浮かんだのだろう、目の前の彼は苦笑を浮かべる。

「…タイムアップか」

彼は紅の向こうに見えている扉の方を見てそう言った。
開かれたままだった扉の所に凭れる蔵馬は睨むわけでもなく笑みを見せている。

「勝手に人の恋人を口説かないでほしいな」
「口説くのに許可がいんのかよ?」
「少なくとも紅の場合はね。紅、帰るよ」

蔵馬が自身の手を持ち上げて彼女を呼ぶ。
紅は迷うことなくその身を反転させて蔵馬の元へと歩いた。

「あーあ。もうちょっと遅かったらキスの一つでもするつもりだったんだけどな」
「…それはそれは…。無事で何よりだよ」

そう言って紅の肩を引き寄せると蔵馬は彼を一瞥して廊下へと歩き出す。
教室に一人残された彼は苦笑を浮かべて自身の椅子に座り込んだ。






「“無事で何より”ねぇ…」

隣を歩く蔵馬を見上げ、紅は肩を竦める。
その言葉の裏に隠された真意は彼には伝わらなかっただろう。

「何か言いたい?」
「“私”が無事でー…って事じゃないわよね。彼の言ってた通りになってたら…蔵馬はどうしたのかしら」
「…さぁね」

誤魔化すように笑うが、その目は笑っていない。
状況を想像してしまったからか、もしくは先程の光景を思い出しているからか。
そのどちらかだと紅は推測する。

「少なくとも一ヶ月は自宅療養してもらってたかな」
「…一ヶ月で済めばいいけどね」
「それより、もう少し紅も危機感とか緊張感を持って欲しいな」

思い出したように蔵馬は紅に向かってそういう。
矛先が自身に向いたことに対して紅は心中で溜め息を漏らした。

「一ヶ月に最低3回あんな状況になってれば自然と慣れてくるわ」
「そこを何とか」
「…蔵馬が目を離さなければ問題ないんじゃない?」

悪戯めいた笑みを浮かべる紅。
彼女の言葉に蔵馬は口角を持ち上げた。

「………それもそうだね。どの道手放すつもりなんてないけど」

そう言って自分よりも一回り小さい彼女の手を拾い上げ、自身のそれで包み込む。
嬉しそうに距離を縮める彼女に蔵馬も同様の笑みを零した。

長い帰り道。
太陽が作り出た寄り添う二人の影は、まだまだ短い。



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06.02.24