Voice
-悠久に馳せる想い- 番外編
私を呼ぶ、あなたの声が好きです。
花綻ぶ木の幹に背を預け、紅は静かに目を閉じていた。
地面までの距離と言えば恐らく彼女が二人は入るだろうと言うくらい。
高所恐怖症の彼女にはギリギリの高さだった。
「高い所が駄目なら下りられては…?」
彼女の膝に乗っていた悠希が躊躇いがちにそう声を掛ける。
ふと、その声に紅の眼が開いた。
金をはめ込んだような切れ長の眼が悠希の姿を捉える。
「ここが好きなの」
「いくら佐倉様がお好きでも、やはり木の上で寝るのはやめた方が…」
「落ちたりしないわよ」
心配そうに言う悠希に紅はクスクスと笑う。
そんな主の笑い声に、悠希は未だ慣れないながらも仕方なしに頷いた。
彼女がこうして笑うようになったのはつい先日の事だ。
常に感情を押し殺してきた彼女を見てきた悠希がその変化に慣れるに十分な時間ではない。
だが、彼女が笑えていると言うだけで十分だった。
「俺も出来れば下りてもらいたいな」
「!」
不意に聞こえた声に、先程まで安定していた木の幹が揺れる。
植物を操る能力を持たない紅はただその動きに身体を弾かれる他はなかった。
驚きながらも落下中に身体を反転させる紅。
しかし、彼女の足が地面につく事はなかった。
「こんな風に落ちられたら困る」
すぐ近くから響いた声に、紅はゆっくりと目を開いた。
視界に映りこんだのは銀色に流れる髪と白魔装束。
そしてどこか呆れた様な、怒っているような…そんな表情を浮かべる彼だった。
「蔵馬…」
「この木は気紛れだと前に教えたはずだが…?」
――怒っている。
そう感じるには十分な声だった。
紅の落下に巻き込まれた悠希だが、すでにその柔軟性を生かして自分で地面へと降り立っている。
二人の会話を邪魔せぬように、悠希は音も無くどこかへと消え去っていた。
「…先程まで機嫌は良さそうだったわ」
この近くに蔵馬が腰を落ち着けるようになってからと言うもの、紅は度々この場所を訪れていた。
一番初めに「気紛れな木だ。あまり近づくな」と言われていたのを忘れていたわけではない。
「振り落とされたのにか」
「…偶々よ」
目を逸らしてそう答えると、紅は彼の腕からすり抜けて地面へと足をつけた。
その際にありがとうと言い忘れない辺りは彼女らしいの一言だ。
「それにしても…よく機嫌がいいとわかったな」
蔵馬が太い木の幹に手を当てて呟いた。
この距離で、更に声は彼女へと向けられている。
元来聴力の発達した彼女がそれを聞きつけられないはずもなかった。
紅は蔵馬の言葉にきょとんとした表情を見せる。
「自分から枝に乗せてくれたのよ」
機嫌が悪いわけが無いでしょう、と紅は言った。
さも当たり前のようにそう言った彼女に、今度は蔵馬が驚かされる。
珍しくも目を見開いて静止する彼に、紅は訝しげな視線を向けた。
「蔵馬?」
「この木が?自分から?」
「?そうだけど…」
それがどうかしたのかとでも言いたげな視線である。
紅の視線に蔵馬は一つだけ溜め息を落とし、そして説明してくれた。
「この木は元々誰も寄せ付けない事で有名な物だ。弱い妖怪ならば死にいたる程度の攻撃力は持っている」
「そうなの?」
「教えたはずだが…」
さすがに妖怪として長く生きているだけあって、紅の知識は深かった。
しかし、それはあくまで生きていく上でのと言うもの。
植物に関しては全く無知と言っても過言ではない。
首を傾げる紅に蔵馬は再び溜め息を落す。
彼女の身を案じて、態々危険な植物を教えていると言うのに…彼女自身が覚えていなければ意味がない。
「この辺りは危険な植物が多いと言ってあっただろう」
「私に傷を付けられるほど危険な物もあるの?」
「……………まぁ、そこまで危険な物はないが…」
彼女の能力を知っているだけに蔵馬は苦笑に似た笑みを零す。
紅が今ひとつ緊張感に欠けている原因はここか、と彼は心中で憶測を立てた。
そしてそれは恐らく間違っていない。
「紅」
短い溜め息を吐き出し、蔵馬は紅を呼ぶ。
十数メートルはあろうかと言う木を見上げていた彼女の視線はすぐに彼へと舞い戻った。
自身が優先されたと言う事が嬉しく、同時に自身を映す彼女が愛おしい。
蔵馬は何かを言うでもなく彼女の手を引き、その身体を抱き上げる。
「どうしたの?」
「暴れるな」
そう一言告げると蔵馬はトンッと地面を蹴る。
ふわりと形容できそうなほどに軽い足取りで彼は木の幹から幹へとどんどん上っていった。
先程彼女が座っていた場所よりも高い位置に来ると、着衣を掴む彼女の手に力が篭った事に気づく。
安心させるように彼女を抱く腕に力を篭め、蔵馬は最後の枝に落ち着いた。
「紅」
「…な、に」
彼女自身が限界と判断していた高さの約三倍。
紅の恐怖心を煽るには十分な高さだった。
トラウマとも言える風の音に彼女は敏感に反応する。
「少しだけ顔を上げろ。…間違っても落したりはしない」
向かい合う形で蔵馬の胸にすがり付いている紅。
蔵馬は彼女の耳元でそう囁いた。
頑なに離れようとしなかった彼女が、ほんの少しだけ顔を持ち上げる。
「向こう」
声と共に移動する蔵馬の指を追って、紅の視線は動いた。
葉の隙間から見えた光景に彼女の眼が開かれる。
「本当は好きなんだろう?」
「どうして…」
「知ってるに決まってるだろ」
口角を持ち上げての言葉に紅は驚きを隠せない。
眼下に広がっているのは魔界の景色。
かなりの高さらしく、正しく絶景と呼べる物であった。
「いつも自分の限界の高さに座る紅を見ていて気づかないはずがない」
「それもそうね…」
愚問だった、と紅は自嘲の笑みを零す。
そして彼を視線から外し、その視界に自分ひとりでは絶対に見ることの出来ない風景を焼き付ける。
「一人で木に上るのは止せ」
暫しの沈黙を破ったのは蔵馬だった。
後ろから彼女を抱きこむようにして彼女の下腹部辺りで手を組む彼。
ごく自然と、彼の唇は紅の耳の辺りへと寄せられていた。
「見たいなら俺が連れて来てやる。だから…この手を震えさせてまで一人で来るな」
そう言って絡め取られる手を見下ろし、紅は微笑む。
その笑みは苦笑いに近しい物であったが彼女は嬉しそうだった。
紅は背中を蔵馬に預けるようにもたれかかる。
「名前を呼ばれるのが好き」
何の前置きも無く紡がれた言葉に、蔵馬はその意図を尋ねるような視線を彼女へと向けた。
無論、その表情は背中を預けている彼女には見えないだろう。
「蔵馬の声で呼ばれるのが好きなの」
腰の前で組まれた手に己のそれを重ねて紅は言った。
不思議そうに「声?」と呟いた蔵馬に、クスクスと笑って彼女は続ける。
「安心するわ。高い所は苦手だけど…蔵馬の声を聞いていると大丈夫だと思える」
彼にその意図があったのかどうかはわからない。
しかし、自分にとって彼の声は一種のトランキライザーの役割を果たしていた。
依存に近い感情。
擦り寄るような仕草を見せる彼女に、蔵馬はふっと表情を緩める。
「…この声の届く所に居ろ」
そうすれば、何度でもその名を紡ぐから。
飽く事なく…たった一人の愛おしいその名を。
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05.12.12