愛しき彼女
-悠久に馳せる想い- 番外編
前の席から回された紙切れを見るなり、紅は思わずその動きを止めた。
しかし、無情にも時間と言うものは彼女一人の為に止まってくれたりはしない。
誰一人気づかれる事なく、彼女は静かに深く長い溜め息を吐き出した。
「休む」
「…は?」
学校の課題を済ませるべく向かいあわせでノートにペンを走らせていた紅と蔵馬。
紅の部屋は風の通り道となりやすいらしく、心地よい室温が保たれていた。
そんな中、突然彼女がそんな事を言い出す。
訳のわからない蔵馬は解けない問題でもあったのか?と彼女の手元を覗き込む。
そして、悟った。
「あぁ、今度の課外授業の話?」
彼女の手元にあったのは昨日学校から配布された課外授業の資料だった。
行き先や、その目的などあまり目を通しても面白くない内容のそれ。
クラスによって行き先は違う為、彼女がどこに行くのかは知らない。
「行きたくないの?」
「行きたいと思うの?」
蔵馬の質問に、紅はにこりと微笑んで返す。
そして紅は今しも手の中でぐしゃぐしゃにしてしまいそうだったそれを蔵馬に見せる。
彼は素直にそれを受け取り、あぁと頷いた。
彼に気づかせたのは、そこに書かれていた行き先のキャッチコピー。
『町を一望できる地上200メートルの施設!!』
それと一緒に載せられていた写真には、高く聳えるビルが写っていた。
「狭い土地を生かそうと思えば上へ上へと高くなるのはわからないでもないけどね…」
これはいくらなんでも高すぎだろう。と彼は苦笑する。
そこまで考えて、蔵馬はふと自分の手荷物を探った。
そして、目当てのファイルの中から紙切れを引っ張り出す。
「…あ。場所、俺と同じだね」
ほら、と紅に見えるように資料を彼女の方へと向ける。
クラスによって製作者が違ったのか、ある程度の相違は見られるが…書かれてある事は同じだった。
「そう言えば…もう一クラス同じ場所にいくって…。あれ、蔵馬のクラスだったの?」
「…そう言う事になるな。面白い偶然と言うか何と言うか…」
「どうせなら他の場所で被って欲しかったわ」
それなら楽しめたのに。と紅はベッドの上に倒れこむ。
そんな彼女を見ながら蔵馬は問う。
「俺が一緒に居ても無理?」
「…クラス大勢の前であなたに抱きつけとでも言うつもり?」
さすがにそこまで根性はない。
彼の人気っぷりを知らないつもりはないし、自身のそれも然り。
それにお互いに広い建物の中で会う事が出来るかも危うい所だ。
ベッドにもたれるように座っている彼はクスクスと笑う。
「嫌?」
「嫌なわけはないけど…………そのつもりで言ってるの?」
彼の表情を見ていれば、自ずと浮かび上がってきた答え。
独占欲故の他者への自慢と牽制…とでも言うのだろうか。
要するに、蔵馬は大いに見せ付けるつもりらしい。
「さぁ?俺は紅と一緒に居たいだけだよ」
ベッドのシーツに流れる彼女の髪を拾い上げ、それを指先で弄りながら答える。
この一筋すらも己の物なのだと言う事、見せ付けるのも悪くない。
蔵馬はそんな事を考えていた。
「…私は、人気の多い場所で一緒に居るよりも、こうして二人きりで居たいと思うんだけど…?」
自分の髪を梳く指は心地よく、それに目を細めながら紅は言った。
一時的に指の動きが止むが、またすぐに再開される。
その一房に唇を寄せると彼は微笑んだ。
「奇遇だな。俺もそう思ってた」
「…本当に?」
本心を探るように、楽しげに笑みを浮かべた紅が問う。
もちろん、と返す代わりに彼は彼女の身体を引き寄せた。
細く柔らかな身体を背中から腕の中で抱きしめ、その耳に唇を寄せる。
「高い所を怖がる紅は可愛いからね。他に見せるのは勿体無いと思って」
「……………性格悪いわね、蔵馬」
「そう?ほら、よく言うだろ?好きな子ほど苛めたいって」
背後から聞こえる彼の声は酷く楽しげだった。
性格が悪いと言うところは否定しないのか…などと思いながらも紅は大人しく彼に背を預ける。
耳元から聞こえる彼の声は落ち着くし、何よりも好きな音だ。
自然と重くなる瞼に逆らっていれば、不意に後ろから堪えた笑いが届く。
「……何」
「いや…寝てもいいよ。無理して起きていなくても…」
「…勿体無い」
脇腹から差し込まれ、腹の辺りで交差する彼の手に己のそれを重ね、紅は呟く。
小さくなっているそれを聞き漏らすまいと、蔵馬はより一層その身体を強く抱きこんだ。
「だって…蔵馬帰るでしょう?一緒に居られる時間は短いから」
互いに自分の家を持っていて、一日の終わりはそこに帰る。
ずっと傍にいられた過去を思えば、寂しくないと言えば嘘になる。
けれども、彼が自身の家での生活も大切に思っていると知っているから…我がままなど言えるはずはなかった。
「…珍しいな。紅がそんな事言うなんて」
「………眠気で少し自制が利かないんだと思ってて」
腕の中でクルリと身体を反転させると、彼女は蔵馬の胸に額を預ける。
照れた顔を隠すその仕草に、彼は口元を持ち上げた。
「起きるまで傍にいるよ」
「でも…」
「いいから。そんな状態で起きてても頭に残らないよ」
そう言って彼は紅の身体を持ち上げる。
ベッドに寝かされたところまでは彼女の予想通りだった。
その後に彼まで寝転がった事を除いて。
蔵馬は紅の横に滑り込むと、先程同様に優しく抱きしめ、その髪を梳く。
「蔵馬?」
「こうすると安心する、って言ったのは紅だろ?」
「…ありがとう」
小さく微笑んで少し高い位置にある彼の唇に己のそれを重ねる。
そして彼女は静かに目を閉じた。
美しい瞳が見られない事は残念だが、彼女の安心しきった表情を見るのは楽しい。
程なくして聞こえてきた規則正しい寝息に、随分と頑張ったものだなと彼は苦笑する。
飽く事なく亜麻色の髪に指を通してはそれを逃がす。
己の腕の中で全てを預ける彼女を見れば、自然と保護欲をそそられた。
その命を懸けてでも、護りたいと思う。
…そんな事をすれば彼女が怒るのはわかりきっているけれど。
「おやすみ、紅」
そっと唇を重ね、蔵馬は呟いた。
「今日は帰らないから…泊めてもらえる?」
寝起きの紅が彼からのそんな言葉に顔を綻ばせるまで、あと一時間と少し。
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05.10.28