悠久に馳せる想い

「私…一緒には行けないわ」

蔵馬の自宅への道を歩いていると、不意に紅がそう言った。
足を止める彼女にあわせ、蔵馬も歩みを止める。
何故、と口に出さずに語りかけてくるその眼差しに、紅は逃げるように視線を逸らす。

「記憶を…消してしまったから」

誰のと言う説明はなかったけれど、蔵馬はそれが己の母を指しているのだと気付く。
再び初対面から始まる関係―――紅は、そこに不安を感じているのだろう。
蔵馬にはそれが、彼女が母のことを真剣に考えてくれている表れに思えた。
どうでもいい人間とならば、いくらでも「初めまして」と言える。
忘れてほしくない記憶があるからこそ、その言葉に戸惑いを覚えるのだ。
彼は、静かに微笑んだ。

「大丈夫」

そう言って、彼女に向かって手を差し伸べる。
紅は無言でその手を見つめた。

「大丈夫だよ。だから、おいで?」

その言葉に、身体が勝手に動き出す。
躊躇いがちに伸ばされた手が彼のそれへと乗り、強くない力で引き寄せられた。
歩き出す彼について行くように、紅もまた歩みを再開する。

「―――、………」

何かを言おうとして、しかしそのまま空気を飲み込む。
紅はそこから先、一言も喋ろうとはしなかった。
蔵馬もまた、無理強いせずに彼女のペースに合わせて、自宅との距離を縮めていく。
二人が家に着いたのは、それから10分後のことだった。










結果として、蔵馬の母は紅の記憶を失っていなかった。
初めまして、という言葉を躊躇った一瞬の間に、溢れんばかりの優しい笑顔に迎えられたのだ。

「久しぶりね」

その言葉は、見知っている者に向かって紡がれるべき言葉。
つまり、彼女は紅を知っている―――忘れていないと言うことだ。
目を見開き、言葉を忘れてしまっている紅に、彼女は続けた。

「最近はずっと来てくれなかったでしょう?秀一が振られてしまったのかと思っていたの」
「酷いな、母さん」
「本当にそう思っていたのよ。今度会ったら話そうと思っていたことが沢山あったのに、呼んでくれないから」
「紅も忙しかったんだよ。ね?」

同意を求めるように振り向いた彼は、紅の表情を見て、即座に気付く。
そして、何事もなかったように母を見た。

「用意してくれてありがとう。俺の部屋で渡したいものがあるから、それを渡したら後の時間は母さんに譲るよ」

湯気立つカップの乗ったトレーを受け取り、紅を階段へと促す。
母はそれを止めることなく、笑みを深めた。

「ゆっくりしていってね」
「は、い。ありがとう、ございます」

何とかそう答え、紅は促されるままに蔵馬の自室へと向かう。













「―――知っていたのね」

彼の部屋へと通された紅は、開口一番にそう言った。
蔵馬はその言葉にニコリと微笑む。

「だから言っただろう?大丈夫ってね」

今思えば、あれは根拠のない台詞ではなかったのだ。
彼は、母が紅のことを忘れていないと知って、その上であの言葉を紡いだ。
安心させるためのその場凌ぎの言葉ではなく、事実を受け止め、確信を持って紡いだ言葉。
人が悪い、とやや唇を尖らせる彼女に、彼は続ける。

「君が手加減したんだよ。無意識のうちに。そうでなければ、母さんの記憶が残っているはずがない」
「…そこは認めるしかないでしょうね」

溜め息混じりにそう呟きつつも、その表情はどこか安堵の色を見せている。
不安要素がいい方向へと転がったのだから、当然のことだろう。
そっと視線を逸らす彼女に、蔵馬は軽く口角を持ち上げた。
そして、彼女の手首を引き、その身体を腕の中に閉じ込めてしまう。

「泣きたいほど嬉しいなら、泣いてしまえばいい。俺の前で我慢する必要なんてないだろ?」

蔵馬はそう言って、彼女の顔を隠すように胸元に押し付けてくれる。
ぴんと張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。


妖怪としてのプライドなど、この際どうでもいいではないか。
もういい、認めてしまおう。
自分も、彼女と言う人を、大切に思っているのだと。


声ひとつあげることなく、けれども確かに涙する紅。
蔵馬は彼女の背中を抱き寄せながら、ただ嬉しそうに微笑んだ。








紅が落ち着くと、蔵馬はずっとしまい込んでいた話題を口に出す。
今後、彼女がどこで生きるのか―――

「人間が嫌いじゃないってことは、認める。
でも、やっぱり魔界の空気が肌にあっていたわ。私は、あそこに戻りたいの」

人間を大切に思う気持ちも受け入れた上で、紅は自分の考えをそう告げた。
蔵馬はその答えに悩む。

「その気持ちはよくわかるよ。俺も、妖狐の時には向こうの方が合ってると痛感する」
「そうでしょうね」
「けど、俺は母さんを置いていく事はできない」
「…ええ、それもわかっている」
「紅が帰りたいって思ってることはわかってるんだ。だけど、俺は君を手放したくはない」

母親を置いてはいけない。
けれど、紅だけを魔界に帰すこともしたくはない。
わがままだと言われようと、その二つは譲れなかった。

「…私だって、離れたくはないわ」
「そう思ってくれているなら…南野秀一の寿命が尽きるまでは、人間界で人として…一緒に生きてほしい」

真剣な目に見つめられる。
紅は少し驚いたような表情を見せ、それから小さく笑みを零した。

「この先数十年…。その程度なら、待てるわね」

妥協点として提示された結果だが、紅としても望むところだ。
優しく微笑んで受け入れてくれた彼女から蔵馬を引き離したいとは思わない。
どの道これから数百年…もしかすると、千を越えるかもしれない長い間、生きていくのだ。
そのうちのほんの数十年を人間界で過ごすことになったとしても、何も問題はない。
頷いた彼女に、蔵馬はその手を握る。

「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないわ」

そう答えて、紅は蔵馬の胸元へと頬を寄せた。










「じゃあ、俺は桑原君と会う約束があるから」
「ええ。途中から合流するわ。そうね…3時に表通りの時計前で構わない?」
「…あぁ、丁度いい頃合だろう。それまで母さんを頼むよ」

玄関先で靴を履く蔵馬にそう頼まれ、紅はもちろん、と頷いた。
ドアノブに手をかけた彼の背中に、リビングから顔を覗かせた母の声がかかる。

「秀一、出かけるの?」
「友達と会う約束をしてるんだ。行って来る」
「そう、気をつけてね。紅ちゃんは行かないの?」
「はい。途中で合流しますけど…折角、志保利さんと過ごせるんですし」

ニコリと笑ってそう答えた紅に、志保利も笑顔を返した。
蔵馬は二人の様子に、前に母が「娘がほしい」と言っていたな、と思いだす。
非常に良好な関係である二人に、彼は小さく笑みを浮かべる。

「行ってくる」

そう言えば、二人の声が、いってらっしゃい、と返してくれる。
玄関をくぐって外へと歩き出しながら、こういう生活も悪くはない、と口角を持ち上げた。

08.06.05