小さな勇気
夢追いのガーネット Side episode
部屋の整理をしていた翼は、クローゼットの片隅から転がり出てきたそれに「あ」と声を上げた。
「うわ…懐かしい」
そう言いながら、それを持ち上げる。
年季の入ったそれは、白と黒で構成され、毎日毎日見ているもの。
洗っても取れないほどに薄汚れ、革のはがれたサッカーボールを見下ろし、懐かしげに目を細める。
こうして見れば思い出すけれど、日常的に覚えているほどではないそれ。
思い出の中に存在するそれを持ち上げ、軽く指先を滑らせる。
とてもではないが指触りが良いとは言えないほどに傷んだボール。
来る日も来る日もこれで練習し、翼はここまで来た。
これのお蔭なのだと思うと、やはりどうしても捨てられなかったのだ。
翼はそれを持ち上げてぽんと一度上に放り投げると、それを抱えてベランダに出た。
「紅!」
少し大きめに声をかければ、数秒後に白いカーテンがシャッと開かれる。
何?と顔を覗かせた紅は、そのままベランダに出てきた。
「ほら」
そう言って、腕に抱えていたボールを持ち上げて彼女に見えるようにする。
それを見た彼女は、翼と同じように「あ!」と嬉しそうな声を上げた。
「あの時のボール?うわー、懐かしい!まだ置いてあったんだね」
貸して?と手を伸ばしてくる彼女にそれを差し出してやる。
ベランダとベランダの隙間に落としてしまわないように注意しながらそれを受け取った紅。
撫でてみたり、手の中で少しだけ上に放り投げてみたり。
そんな風にボールとじゃれあう彼女を見て、翼は目を細めた。
「暁斗はまだ覚えてると思う?」
「あー…どうだろう?多分覚えてると思うよ」
あの日は色々とあったから。
そう言って苦笑する彼女に合わせるように、翼も肩を竦めた。
二人の共通した思い出は多い。
その中でも、一際強く残っている、翼が護身術を覚えるきっかけになった日の出来事。
「ねー、翼。お兄ちゃんに何も言わなかったけど、勝手に出てきて怒られないかな?」
後ろを付いてくる紅が心配そうにそう言った。
彼女は、場所を告げずに勝手に外に遊びに行くことを禁じられている。
翼はそれが過保護だと思っていた。
自分たちだっていつまでも子供ではないのだから、遊びに行くくらい二人だけでも平気だ。
先日小学校に入学したことが、その自信を強くしていた。
「平気だって言ってるでしょ?それとも、紅は暁斗がいないと公園にも行けないの?」
「そんな事ないけど…」
そう答えつつも、表情は全く逆のものだ。
兄の言いつけを裏切るような後ろめたさが彼女の後ろ髪を引いているのだろう。
翼は彼女の様子に、自分では頼りにならないと思われているような気がした。
それが悔しくて、つい足が速くなってしまう。
彼女が必死についてきている事を知っていたけれど、それでも速度を落とせなかった。
翼も紅も、まだまだ子供だった。
そうして、数分後にいつもの公園にたどり着いた二人。
お昼を食べてすぐに家を出てきたから、まだ日は高い。
しかし、平日の昼下がりということもあり、他の子供の姿はそこにはなかった。
家族で出かけたりしているのだろう。
「誰もいないね」
きょろきょろと周囲を見回していた紅がそう言った。
そうだね、と同意してから遊具の方へと歩き出す。
その途中で、紅が砂場の影に転がっていたボールを見つけた。
「翼、これ何?」
「ん?あぁ、それはサッカーボールだね」
色々なことに対し、自分よりも少しだけ詳しい翼。
紅は何か分からないことがあると、すぐに彼に聞くような癖が付いていた。
そうして頼られることは嬉しくて、翼も自分に分かることはちゃんと答える。
二人でそのボールの傍へと歩いていく。
「サッカーボール?」
「家で見たことあるんじゃない?暁斗がサッカーしてたと思うよ、確か」
翼の言葉に紅は、んー、と頭を悩ませる。
それから、思い出したようにぽんと手を叩いた。
「あった!この間お兄ちゃんが庭でポンポン蹴ってたよ」
こんな風に、とボールを持ち上げて足で真上に蹴ろうとする。
しかし、彼女の意思とは裏腹に、ボールは1メートルほど向こうに飛んでしまう。
あれ?と首を傾げた紅に、翼が溜め息を吐き出した。
「上に飛ばないね」
「難しいんだよ、それ。前にテレビで見たけど、練習しないと10回も続けられないんだって」
「ふぅん…翼は出来る?」
難しいといったのを聞いていなかったのか、翼は何でも出来ると思っているのか。
紅の問いかけに、彼は向こうに飛んでしまったボールを拾いに行く。
テレビで何度か見たことはあるけれど、こうやって触るのは初めてだ。
この間までは幼稚園に通っていた彼には、大きくて重い。
とりあえず試しに真上に蹴り上げてみるのだが、やはり結果は紅と同じだった。
彼女ほど前には飛ばさなかったけれど、それでもとてもではないが真上とは言えない位置に落ちたボール。
それと彼とを交互に見て、紅が口を開く。
「出来ない?」
「…出来る!」
別に幻滅したわけでも何でもない純粋な言葉だったのだが、翼には気に入らなかったようだ。
少しだけ強めに答えてから、もう一度ボールを拾いに行く。
そこから先は意地の世界だった。
「あの日は必死だったよね、翼」
クスクスと笑い出した紅。
そんな彼女に、翼の物言いたげな視線が向けられる。
「紅は結局吹っ飛ばしただけだったよね」
「まぁ、そうね。翼はあの日のうちに10回出来るようになったもんね」
思い出すように目を細め、腕の中のボールを見下ろす。
翼は彼女の姿に昔の彼女を重ね合わせた。
「それより…その後が大変だったわよね。翼、練習に白熱しちゃって」
気が付いたら夕暮れだったんだもん。
楽しげに思い出しているらしい彼女に、そうだったな、とその時のことを思い出す。
練習に夢中になった彼は、日が暮れ始めるのも気が付かなかった。
そうして、紅が声をかけた時には、既に太陽が8割ほど沈んでしまった後だったのだ。
二人が慌てて帰らなければと思ったそのとき、事件は起こる。
「まさか不審者に出くわすなんて…予想外だったよね」
予想できていなかったのは、自分たちがまだ子供だったからだろう。
もう少し考えることができたならば、わかったはずだ。
夕暮れ時の人気のない公園で二人だけの子供。
不審者が狙うには十分すぎる獲物だった。
「あの時は本当に怖かったなー…」
「…悪かったと思ってるよ」
「でも、格好良かった」
紅はそう言ってにっこりと微笑んだ。
その笑みから顔を逸らす翼。
「翼がボールの扱いに慣れてくれていたから逃げられた」
「…家に帰ってからの暁斗がめちゃくちゃ恐かったけどね」
思い出した今でも、口元が引きつってしまう。
子供心に「暁斗は怒らせてはいけない」と刻み込まれているほどだ。
そんな彼に、紅は面白そうに笑う。
「でもさ、そのお蔭でこのボールを兄さんから貰えたんでしょ?あれから翼は凄く練習したよね」
「まぁ、ね」
思えば、あれがサッカーの始まりだったのだろう。
二人だけで勝手に出て行ったこと、日が暮れるまで帰ってこなかったこと。
凄く凄く怒られた。
けれど、その後でちゃんと事情を聞いてくれた暁斗。
彼は紅を助けてくれた翼にお礼を言って、それから翼に自分のボールを渡した。
「興味があるならこれをやる。だから、まずは庭で練習しろよ」
今度一緒に教えてやるから。
そう言って頭を撫でてくれた彼。
「本当はね。翼が兄さんと練習ばっかりするから、一時期はこれを捨てちゃおうかと思ったの」
上手くなればなるほど、翼は貪欲に高みを目指した。
本当に、知らないうちにそれを捨ててしまおうかと思ったこともある。
「……それ、初耳なんだけど」
「うん。言ってないから。―――そこからよね。少しだけ…翼が遠くなったのは」
初めの頃は一緒になって練習していた。
けれど、小学校中学年の頃に剣道を始め、それからは彼と一緒にサッカーをすることはなくなった。
そうして、いつの間にか二人の間に気持ち的な距離が出来ていたのだろう。
小学校の残りを終え、翼は私立へと進学し、紅は公立へと進学した。
偶にばったりと出くわすことはあったけれど、お互いのベランダを行き来することなく過ごした数年。
翼が飛葉中に転校してこなければ、二人はあのまま変わらなかっただろう。
「翼が転校してきてくれて…前みたいに、こうしてまた隣にいられて、本当に嬉しいの」
「…まだ遠いと思ったりするの?」
「そりゃ、サッカーをしてる翼はそう思うけど…でも、ちゃんと帰ってきてくれること、わかってるから」
だから平気。
そう言って迷いなく答えてくれた彼女に、翼は薄く微笑んだ。
それから、部屋の時計を見上げる。
「出かけようか」
「え?」
「あの公園まで。それとも…暁斗に言っておかないと、また怒られる?」
そう言って悪戯に笑う翼。
そんな彼に、紅もクスリと笑った。
「怒られる時は一緒、ね?」
「当然でしょ。じゃあ、3分後に玄関で」
紅の手からボールを受け取り、部屋の中へと引っ込んでいく彼。
それを見送ると、彼女もまた、準備のために自室へと引いた。
翼は部屋のクローゼットにボールを戻し、ジャケットを羽織りつつ階段を下りていく。
靴を履いて玄関を出れば、丁度隣の家から出てきた紅。
彼女と目が合い、二人して意味もなく笑う。
「ね、あの公園からの夕日が見たいな」
「帰ってくるのが遅くなるけど?」
「もう!兄さんだって、この歳になって夕暮れを過ぎたくらいで怒ったりしないわよ」
「はいはい」
そう言って、何度も歩いた道を二人で歩く。
並んだ影が仲睦まじく寄り添っていた。
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08.03.16