Sweet time
夢追いのガーネット Side episode

2月―――卒業式を来月に控えた3年生は、受験真っ只中だ。
すでに合格している者も出てきているこの時期。
そうは言っても、日々受験勉強に明け暮れているとは言え、この日ばかりはそれを忘れて乙女に戻る者も居る。
世間は今、まさに「バレンタインシーズン」として賑わっていた。

「翼。この問題はこれでよかったっけ?」

問題集を片手に、翼へと身を寄せる。
同じ問題集を解いていた翼は、その声に手を止めた。

「…うん。いいと思うよ。ただ、この辺余計じゃない?」
「ん?うーん…」
「ほら、こうやって省いていくと、時間短縮になる」
「おー。本当ね」

紅の解答の隅に書き加えられたそれをみて、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それから、同じ問題をもう一度解きに掛かる。
もちろん、今度は翼に教えてもらった通りの方法を使った。
彼はその間自分の作業を進めるでもなく、すらすらと書き加えられていく数字を見つめている。
学生独特の遊んだような文字とは違い、紅の字は読む相手の事を考えた綺麗なそれだ。
恐らく、読む相手と言うよりは自分が読み易い事を前提としているのだろうけれど。
そんな事を考えている間に、彼女もその問題を解き終えたらしい。

「うん。こっちの方がすっきりするわね。ありがと」
「どういたしまして。ついでに、俺の方にも意見をくれない?」
「もちろん。どれ?」

再び身を寄せてくる彼女にその問題が見えるようにする。
先ほどまで解いていた問題集ではなく、机の隅に追いやっていたもう一つの問題集だ。
集中しているようだったので、後から声を掛けようと思っていた分。

「あぁ、この問題は引っ掛けよ。どちらでもいけそうだから、私も悩んだんだけど…」

そうしていると、チンッと言う電子音が二人の耳へと届いてきた。
その音に、半ば反射的に顔を見合わせる二人。

「行って来なよ。急いでないし」
「うん。ごめんね」

そう言って苦笑を浮かべ、紅は暖かいコタツから出て行く。
そのままダイニングを横切って、キッチンへと入っていった。
シンクはカウンターに沿うように作られていて、キッチンで作業する者の姿が見える。
翼は顔を出したり消えたりする彼女の姿を眺めていた。
オーブンレンジを開く音、それから閉じる音がして、紅がひょこっと身体を起こす。
取り出したものの様子を見ているのか、翼の視線には気付かない。

「んー…よし、完成!」

嬉しそうにそう言ってから、彼女は翼の方を向いた。
今更に彼が自分を見ていたのだと気付いたのだろう。
照れ笑いを浮かべてから、彼女はそれを持ち上げた。

「休憩にする?焼き立てだから美味しいよ」

顔の位置まで持ち上げられたそれは、綺麗に焼き上げられたブラウニーだ。
翼は一度手元を見てから、そうだね、と開いたままだった問題集を閉じる。

「本当は少し冷ました方がいいんだけど…。ま、飲み物を用意してる間置いておけば大丈夫だと思うし」

嬉々とした様子で作業を休憩の準備を行なう彼女に、翼の口角が自然と持ち上がってくる。
こう言うと世の中の受験生に睨まれそうなのだが、受験と言う一大イベントに感謝したいと思う。
去年は例の賭けもあり、結構大変だった。
何故今年は平日なのにこんなにも平和なのかと言うと…それは、二人が受験生だからだ。
今の時期、飛葉中の3年生は自主登校となっている。
つまり、登校してもしなくてもどちらでも構わないと言う事。
もちろん、今日と言う日に賭けている男子生徒や女子生徒は学校に行っているのだろう。
しかし、賭ける必要のない紅や翼は、実に平和な日を過ごしている。
受験自体も、焦って先生に質問しておかなければならないほどに大変でもない。
二人を狙っていた生徒はがっくりと肩を落としているのだろうけれど。
因みに、今の時間は午後の2時を少し回ったところ。
午前中から何度かインターホンが鳴っていたが、モニターで確認した後は全て無視して居留守を決め込んでいる。




準備が整ったのか、紅がキッチンから出てきた。
銀色のトレーの上に、二つの湯気立つカップと適度な大きさに切り分けられたブラウニーが乗っている。
コタツの上を占領していた勉強道具は、既に翼の手によって片付けられていた。

「キッチンを借りたお礼には少し物足りないかもしれないけど、おじさんやおばさん達の分もあるから」

帰ってきたら渡しておいてね。と頼んでおく。

「どこに置いてあるの?」
「キッチン。見たらすぐに分かる所。少し多めに作ったから、食べられるなら翼も食べてね」
「暁斗の分は?」
「それは切り分けさせてもらいました」

そう言って笑いつつ、紅は三つあった皿の一つを持ち上げた。
見覚えのない皿なので、恐らく彼女が家から持ってきていたのだろう。
何とも用意周到なことだ。

「はい、ハッピーバレンタイン」

カップとお皿を彼の方へと移動させつつ、そう告げる。
そして先ほどと同じ位置に座り、自分の分を引き寄せた。

「ありがと」
「どういたしまして。ここ数ヶ月はお菓子作りなんてしてなかったから、何だか凄く新鮮だったわ」
「まぁ、休日返上で忙しくしてたしね」

選抜と受験勉強を同時にこなしていた二人だ。
模試でA判定が出ているとは言え、勉強しないと言うわけにもいかないのが受験生。
身体を休める程度の暇はあっても、お菓子作りに使う暇はなかった。

「今日は皆残念がってるんだろうなー」

翼がきていないとわかって肩を落とす女子生徒の量を考えると、思わず苦笑が零れた。
彼自身は余計なものを貰わずにすむ事を喜んでいるようだが、紅は同じ女として素直に喜べないところだ。
優越感に浸ることが出来ないのが彼女である。

「それを言うなら、男子もそうだと思うよ」

ありえないと分かっていても、薄すぎる希望を抱いて登校した男子生徒も居るだろう。
そして、二人とも来ていない事に対して肩を落とす。
いい加減に諦めればいいのに、と思う翼だ。
人一倍独占欲を持っている彼にとっては、そんな希望を抱かれる事すら鬱陶しい。
かと言って、こればかりは自分の物だと声を荒らげてどうなるものでもないので仕方がないけれど。
そんな事を考えながら、翼はフォークで一口サイズに切ったそれを口に放り込む。
まだあたたかいそれは口の中に優しい甘さをもたらした。
眉を顰めるほどに甘くはないそれは、いつもの事ながら絶妙な加減だ。

「…美味しいよ」
「そう?良かった。ブラウニーは久しぶりだったから、ちょっと心配してたんだけど…」
「紅って本当に俺の好み通りのを作るよね」

感心するよ、と言って笑えば、彼女もまた、嬉しそうに微笑む。
自分好み、そう言ってもらえるのは嬉しい。
美味しく作る事は、多くの人が出来ることだ。
けれど、その人の好み通りに作ろうと思えば、その人の好みを知っていなければ出来ない。

「紅のを食べると、他の店では食べる気が起きないんだよね」
「駅前のケーキ屋さんとか、凄く美味しいよ?」
「…この間土産って言って持ってきたあれ?」
「うん」
「あれ、無駄に甘すぎ」

そんな会話の間にも、彼の手と口は休みなく動いている。
お世辞ではないと言う事は、その様子から見ても明らかだ。

―――ピンポーン

二人の穏やかな時間を邪魔するように鳴り響いた、本日何度目かのインターホン。
チラリとモニターを横目で見た翼だが、動こうとはしない。
そんな彼に苦笑いを浮かべつつも、他のものを受け取らないと言うその姿勢は紅にとっては嬉しいものだ。
ふふっと小さく笑った彼女に、翼は不思議そうに首を傾げた。

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08.02.14