不安な時は傍に居て
夢追いのガーネット Side episode
「紅、明日も選抜練習だって言ってたよな?」
「うん。電車で五駅向こうの中学校だって」
「朝から出かけるから、行きは送ってやるよ。帰りは翼が居るだろ?」
冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を喉に通しつつ、暁斗がそう言った。
それを聞き入れ、紅はシンクの上でパッと手を振って水気を払う。
脇にかけてあったタオルで手を拭く紅の傍らで、彼が思い出したように「あ」と声を上げた。
「そう言えば…この間、井上を見たぞ」
「直樹?どこで?」
「関西選抜の練習で」
彼の言葉に両手でタオルを握り締めたままピタリと静止する。
驚いていると言うには、何か違う。
「紅?」
「あ、ううん。そっか、関西選抜ね。向こうで頑張るって言ってたから」
何もおかしくないね、と紅は笑う。
だが、その笑顔はどこか力がないように思えた。
「…風呂、入って来いよ」
そう言って、彼の大きな手が紅の背中を押す。
押すと言っても力強いそれではなく、軽く着衣に触れる程度だ。
それでも、言葉の力なのか彼女の身体は動き、一度彼を見上げた後リビングを出て行った。
一度階段を上って暫くして再び降りてきて、廊下を進むパタパタとした足音。
バタンと言う扉の閉じる音は、恐らく洗面所から発せられたものだろう。
リビングのソファーで何をするでもなくテレビのチャンネルを回していた暁斗は、それを耳で捉える。
そして、ソファーの前のテーブルに乗せていた自分の携帯を持ち上げた。
時計を見上げ、まだ非常識な時間ではない事を確認する。
アドレス帳を開けば一番初めに目に飛び込んでくるフォルダの中からその名前を探し出す。
カチッとボタンを押して、その携帯を耳へと運んだ。
風呂上りで水気を含んだ髪を乾かした後、紅は自室に戻っていた。
雪耶家のリビングの消灯は早い。
そう決めたわけではなく、家の中に二人しか居ないのだから自室に篭ってしまえばその時間が消灯だ。
恐らく、兄も自室で仕事の続きをしているのだろう。
紅は部屋の隅で畳まれた状態で積まれている白いタオルを一瞥した。
ユニフォームに合わせた赤のインクで『飛葉中学校サッカー部』と印刷されたそれ。
それから視線を外すと、本棚に陳列されている中から薄いアルバムを引っ張り出す。
中の写真が折れてしまったりしないように、表紙は厚く頑丈に出来ている。
普通の本よりも少し重いそれを膝の上に載せ、ベッドにもたれるようにカーペットの上に腰を下ろした。
「…一年生の入学式か…もう2年も経つんだなぁ」
笑う自分の全身が映っているのだから、自分自身で撮ったという事はまずない。
あぁ、確か兄さんが撮ってくれたんだったな、と思い出した。
思い出にふと口元を緩めたその時、コンッと乾いた音が室内に聞こえる。
ほんの小さな音だけれど、聞き逃すはずのないそれ。
紅はその音を聞くなり、アルバムを膝の上に置いたままベランダの窓の方へと身を伸ばす。
カーテンを開けば、Tシャツとジャージで濡れた髪をそのままに夜空を見上げる翼が居た。
彼は紅の方を向くと指先をひょいと下に向けて窓の鍵を指す。
開けろ、と言う事らしい。
「…翼?どうしたの?」
今日は約束してなかったよね?と首をカレンダーの方へと向ける。
自分が忘れていただけだろうか、何か特別な日だっただろうか。
そんな事を考えながら、彼女はカレンダーの数字を追った。
「約束してないよ。入っていい?」
「あ、うん」
どうぞ、そう言って窓の正面を離れて彼が入れるように空間を空ける。
入ってきた翼は、ふと紅の膝元にあるアルバムの存在に気付いた。
「アルバム?」
「そう。久しぶりに見てたんだ。最近整理してなかった事を思い出して」
そう言うと、紅は最後の写真の載っているページを開く。
すると、そこからパサリと茶封筒が滑り出てきた。
それが彼女の言っていた整理していなかった分なのだろう。
翼はそんな事を考えながら、紅の隣に腰を下ろす。
「見てもいい?」
茶封筒を指先で拾い上げながら問いかければ、「いいよ」との声が即座に返ってくる。
彼女の目はすでにファイリングされた写真の方を見つめていた。
「…いつの間に」
そんな呟きが聞こえ、紅はアルバムから視線を上げた。
彼の手元を覗き込めば、そこには見慣れた風景の一瞬を写した写真。
少しばかり古い部室もグラウンドを駆けるユニフォームの色も、今と全く変わりなかった。
「あぁ、それね。前に玲姉さんに許可を貰って」
「全然知らなかったよ」
「ね、よく撮れてるでしょ?」
彼女自身がそう言うだけの事はあり、写真は中々の出来栄えだ。
基礎練習なのだろう、片足を持ち上げた部員達の膝上で白と黒のボールが止まっている。
次の写真を見てみれば、こちらはフォーメーションの確認だろうか。
一人飛び出している部員を指している自分が、写真の端に写りこんでいた。
「………何か、悩んでるの?」
十数枚に亘るそれを見ていた翼が声を発した。
その意味が分からず、紅はきょとんとした表情でこちらに視線を向けていない彼を見る。
次を開こうとした指先が、アルバムのページを不自然に持ち上げていた。
「どうしたの、急に」
「暁斗が元気ないって言うから」
「…そっか」
紅は納得したようにふと表情を緩める。
風呂上りに兄の様子がどこかおかしいと感じていたが、その理由はこんな所に落ちていたらしい。
「引継ぎが終わったら…引退だね」
何が、とは言わずに、翼の指から部活中の写真を拾い上げてそう言った。
3年である自分達は、これから所謂『受験戦争』と言うものに巻き込まれる。
自分達の将来の為と言えば聞こえはいいが、学生の身からすれば嬉しいものではない。
夏の大会は終わってしまって、部活もいよいよ2年生がメインになってきていた。
「…寂しいの?」
「………ちょっとだけ」
「卒業式が近いわけじゃないのに…今から寂しがっててどうすんの」
まるで呆れるようにそう言うが、彼の声は柔らかい。
確かに卒業式はまだ半年も先で、これから自分達はどんどん大変になっていく。
今からこんな事では駄目だと分かっているのだが、それでも―――
「もっと皆のサッカーが見て居たかったの」
共にフィールドに立つわけではないけれど、それでも仲間として扱ってくれる彼らが好きだ。
選抜チームのマネージャーもしていて、改めて部活での繋がりの深さと大切さを感じた。
でも、それに気づいた時にはもう引退が間近に迫っている。
「武蔵森みたいに高校までエスカレーター式だったらよかったのに…」
「…他の学校を羨んでも仕方ないよ。それに…いつかは別れるんだから」
コトンと、隣に座る翼の肩を借りる。
彼はそれを咎める事もなく、カーペットの上に置かれていた紅の手を握った。
「止まれないんだ。俺達は…自分の夢の為に」
「…いいね、そうして…自分の好きなことに向かって走っていけるのって」
時に涙を飲む事もあるけれど、それでも走り続ける彼らを、純粋に羨ましいと感じてしまう。
自分がしたい事は何なんだろう、そう思うと、不安が胸を押しつぶしそうだった。
彼らのように、翼のように…自分には、それこそ人生を懸けられるような『何か』がない。
それが、仲間と別れる帰路へと立つ事を不安にさせていた。
「これから見つければいいよ。焦る必要なんてない」
「…見つからなかったら?」
「紅なら見つかると思うけど…。ま、見つからなかったら…そんな事考えられないくらいに忙しければいいんだろ?」
彼の言葉に、紅は首を傾げた。
言っている事の意味がよくわからない。
そんな彼女の反応に、彼は喉で笑って彼女の耳元に唇を寄せる。
「子供を育てるのは大変だって言うしね」
「つ、翼!まだ中学生なのにそんな話は…」
気が早い、と声を尖らせる紅。
逸らした顔は耳まで赤いと、彼女は気付いているだろうか。
「高校になっても、またフットサルで集まればいいんだよ。学校が離れたくらいで切れるような仲じゃないだろ」
彼の手がぽんぽんと頭を撫でる。
そこから焦る必要はないのだと言う彼の声が伝わってきて、訳もなく涙が出そうになった。
涙を見られないように、きゅっと彼の腕に額を寄せてその腕を抱きこむ。
「俺は傍に居るから。不安になったら、いつだって呼べばいいよ」
紅は彼の唇から零れ落ちる優しい声に、ただ肩を震わせた。
ありがとう、と言う声は、彼に届いただろうか。
Menu
06.09.16