夢追いのガーネット
Idle talk 29.5

「翼!」
「…何?突然」

玲と打ち合わせしてたんじゃなかったっけ?と、ベッドの上で首だけを振り向かせたのはこの部屋の主。
夕方まで掛かるから、と放置されたのは、まだ記憶に新しい。

「翼の志望校って変更ないよね?」
「志望校?あぁ、あの最終調査?」

そう問いかければ、彼女はうんと頷く。
そして、自分の返事を待つ彼女は、どこか楽しげだ。
何だかよくわからないが、答えないわけにも行かないので素直に「変更は無い」と告げた。

「そっか。ありがと」
「何?まだ出してなかったの?」
「うん。志望校を変えた方がいいかと思ったり、色々とありまして」
「今更変えてどうすんのさ。大体、紅があの学校に行くって言うから…」

そこまで言って、翼はハッと我に返る。
慌てて口を噤むが、彼女に聞かれていないなどありえるはずも無い。

「…あの学校に進む理由が見つからなかったの。夢があるわけでも、それを実現できるわけでもないし…」
「ま、普通の公立高校だからね。得られるのは高卒資格くらいだし」
「でも、見つからないだけじゃなくて忘れてたみたい」

そう言うと、紅はポスンとベッドに腰掛ける。
そして、うつ伏せで寝転がる彼の背中に凭れるように上体を倒した。

「…重いよ」
「それは乙女に対して禁句です」
「誰が乙女なんだか…それより、何を忘れてたの?」
「翼と一緒に居たいって事」

悩んでたら、すっぽり抜け落ちちゃってた。
そう言って笑う紅に、彼は呆れたように溜め息を吐いた。
それはあまりに失礼だろう、と思うのだが、それが彼女だから怒る気にもなれない。
寧ろ呆れの感情だけが先に立つ。

「将来で悩むのは、高校最後の年まで置いておく事にしたの。それまでは…学校生活を楽しめばいいかなって」
「…って言うより、俺には何で今頃必死に悩んでるのかが理解できないね。そこに行き着くまでに時間掛かりすぎ」

最近おかしかったのはその所為か、ともう一度溜め息。
幸せが逃げるよ?と首を傾げながら言ってきた彼女は、とりあえず頬を抓むことで黙らせておく。

「暁斗に難しい事学びすぎて、変な所で馬鹿になってるんじゃないの?」
「失礼だなぁ、それ」
「本当の事だよ。
大体、自分であの学校に行こうって言い出したくせに俺の事を忘れるなんてね?そっちの方が失礼だと思わない?」

ひょいと身体を押しのけられたかと思えば、次の瞬間には位置が逆転していた。
翼はベッドに座り、紅はその傍らに横たわっている。
神業だ、と笑う彼女の上に、翼は呆れたように枕を落とした。

「…ねぇ、覚えてる?」
「何が?」
「お父さん達が向こうで暮らすからついてきなさい、って言った時」
「………覚えてるよ」

間があったのは、それが翼にとっても少し…いや、かなり恥ずかしい過去だからだ。
翼はふと、紅の部屋に面しているベランダの方を向く。
あの頃はまだこのベランダを越えられなくて、それを挟んで彼女と話したものだ。

「それを思い出したら、悩んでるのが馬鹿らしく思えてきたの」

大人の決定に意見できるほど、自分達は成長していなかった。
ただ、この高すぎる壁を挟んで二人で言葉を繋ぐしか出来なかったのだ。

「進路を考えるのは高校でも出来るけど、あの学校に行かなかったら翼はいないもんね」

くるりと身体を反転させ、うつ伏せになって肘をつく。
鼻歌でも歌いだしそうなほどにご機嫌な様子に、彼は心中で首を傾げた。

「機嫌いいね」
「悩んでた事が解決してスッキリ気分爽快なの」

あぁ、なるほど、と彼は思う。
頭をショートさせそうなほどに悩んでいたものから解放されれば、この反応も無理はない。
先程まで自分が読んでいたサッカー雑誌を捲る彼女を見ていた翼が、思い出したように時計を見た。
まだ、時計の針は出かけるには十分な時間を指している。

「紅」
「ん?」
「散歩でもする?」

そう問いかければ、彼女は今しがた読んでいた記事から視線を彼へと移す。
そして、先程の彼と同じように時計を見た後、嬉しそうに頷いた。

「行く」
「じゃあ、用意する………打ち合わせは?」

途中でそれの存在を思い出した翼が尋ねれば、紅はヘラリと表情を緩めた。
彼女自身もすっかり頭から抜け落ちていたらしい。

「明日にしてもらうよ。何か、今日は出かけたい気分だから」
「…気分屋…」

ポツリと呟いた言葉は、普段ならばムッと口を尖らせるようなものだ。
しかし、機嫌の良い彼女は「そんな事ないよ」と笑った。
うつ伏せから仰向けの状態へと身体を動かし、反動をつけずに起き上がる。
マネージャー仕事の合間に、選手と同じようにトレーニングをしている紅にとっては朝飯前だ。
翼がクローゼットからパーカーを取り出している間に、紅はベッドの上に乗ったままの雑誌を片付ける。
彼の準備が整ったところで、先に廊下へと歩き出す。
そのまま止まる事無く階段を下りて行き、リビングへと入った。


数え切れないほどに何度もお邪魔している今、この家の構造は目隠ししていても目的地に辿り着ける自信がある。
紅は、部屋に入るなりこちらに視線を向けてきた玲を呼ぶ。
そして、少し小首を傾げる動作つきで、打ち合わせは明日でもいいかと尋ねた。
構わない、と即答されれば、自分でも分かるほどに表情が緩む。
データを用意するならば、と言う条件付ではあったが、自分にとっては朝飯前だ。
自分の上着を持ち上げると、足取り軽やかにリビングを出て行く。
ドアのところで待ってくれていた翼を追い越し、先に玄関へと歩いた。

「お邪魔しました」

靴を履き終えた紅は、家の中に向かってそう告げる。
リビングに居る玲には聞こえなかったらしく、返事は無い。
翼の母親は買い物に出かけているし、父親は仕事。
他に返事をする者は居ないと知りながらも、紅は毎回きちんとこう言って家を出る。
無論、入る時には「お邪魔します」だ。

親しき仲にも礼儀あり。

雪耶家では口をすっぱくして言われる事を、彼女は忠実に守っていた。

「ね、どこに行くの?」
「どこでも。どこに行きたい?」
「んー…とりあえず、フットサルでも行く?」

悩んだ時はフットサル。
決めたわけではないのだが、友人関係や二人の趣味上、自然とそんな考えが頭の中に出来上がっていた。
参加する事もあれば、観ているだけと言う事もある。
今回は、服装も服装なので恐らく後者になるだろう。
それでも、他の人のプレーを見るというのは色々と勉強になるものだ。

「この時間に誰か居ると思う?」
「居るんじゃない?って言うよりも、休日だし混んでると思うよ」
「あぁ、確かに。あそこ人気あるもんね」

他愛ない話に花を咲かせつつ、二人は少し傾いた日差しに見守られながら影を並べて歩いた。

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06.10.27