夢追いのガーネット
Episode High School April
「スペインに行こうと思う」
カラン、と氷が音を立てた。
出かけよう、と誘われて、翼と一緒に家を出る。
学校の登下校中は制服だから、私服で並んで歩くのは久し振りだ。
どこに行くの?と聞くと、彼は駅前とだけ答えて、その後は無言だった。
口数の少ない彼に少し疑問を抱きつつ、雰囲気で大事な話があるのだと理解する。
そしてそれはきっと、紅にとっても重要なことなのだろう。
ならば、紅がすべきことは翼がそれを話す時、真剣に聞くこと。
そしてできるなら、彼の望む答えを出すこと―――それだけ。
駅前には、二人が御用達にしている喫茶店がある。
少し奥まったところにあるレトロなお店で、今どきの若者が通い詰めるファーストフード店とは似ても似つかない。
少し暗めにセットされた店内の照明と、他の客が見えにくい配置は、落ち着いて話すにはちょうど良い具合だ。
顔を見るなりいつもの席に案内された二人の元に、水を持った店員が近付いてくる。
「ご注文は?」
「いつもの。紅も同じでいい?」
先に答えた翼に頷くと、店員が笑顔を残してカウンターへと下がっていく。
程なくして届けられるドリンクと、お皿に乗せられた数種類のクッキー。
顔を上げると、馴染の店員がウインクをした。
「店長からのサービス。試作品なんだって」
あとから感想聞かせてあげてね、ごゆっくり。
そう言い残して、彼女は足早にテーブルを去る。
お互い一枚ずつクッキーを取って、一口。
知っていたことだけれど、店長の作るお菓子は美味しい。
口の中の甘さに小さく微笑んだところで、翼が顔を上げた。
「スペインに行こうと思う」
そして、冒頭へと話が戻る。
「…うん。いつ?」
「来年の春」
「ってことは、高校卒業したらってことだね」
確認する紅に、そうなる、と頷く翼。
そっか、と呟き、ストローを銜えた。
氷に冷やされたドリンクが喉を潤す。
「私、どうしたらいい?」
紅はあえて翼にそう問いかけた。
「紅はどうしたい?」
「…質問に質問で返すのは駄目」
少し拗ねた表情で見つめれば、翼が肩を竦めた。
そして、ガラスのコップに添えられた紅の手を取る。
「俺は…離れたくない」
「―――うん」
「一緒に来て」
二人の指が絡まる。
向けられる眼差しの強さに、紅は小さく微笑んだ。
その言葉だけで十分だ。
「うん。一緒に行く」
「そっか。じゃあ、冬には正式に契約するんだね」
「そうなると思う。色々と準備することもあるしね。ま、受験勉強の時間を準備に充てられるけど」
「…何だか、周りから恨まれそう」
その時のことを想像すると、思わず苦笑が零れてしまった。
受験も就職活動もしないとなれば、浮いた存在になるのは必至だろう。
「紅はどうするの?」
「あ、えっと…翼にはもう少ししてから話そうと思ってたんだけど。
兄さんの会社の新事業部に人手がいるみたい。スポーツ事業部を設立するらしいよ」
「ってことは、就職?」
翼の言葉に、そうなるかな、と頷いた。
向こうで大学に行くことも考えたけれど、果たしてそれが必要なのかと言う問題が浮上する。
契約である以上、翼にもある程度の収入は確保される。
だが、それでも異国の地で彼に養われて大学に行くのは違うと思う。
大学費用は両親が工面すると言ってくれるだろうけれど、さしあたって学びたいと思う事がない。
「その気があるなら秋の面接を受ければいいって言ってくれてるから…受けるつもりだった」
もちろん、いずれ翼は外国に渡るつもりだと知っていたからこその前準備だ。
翼が行かないなら、日本支部で働いたらどうだ、と兄から提案されている。
兄に任せきりでは、と思った紅に、暁斗はこう言った。
「高校を卒業したとしても、まだまだ後ろ盾も何もない未成年だ。頼れる人間がいるなら、頼れ。
ただし、始まったらひとりの社会人として自分で歩くんだ。一人前じゃなくても、自分で歩けばそれでいい」
初めは半人前でも、皆そこから始まるのだ。
歩き続けた結果が、未来へと繋がる。
それは兄としてではなく、ひとりの社会人として、人生の先輩としての言葉だった。
「…そっか」
「実は、スカウターとしての連絡も来てるけど…するつもりはないの」
「あの時は興味があったように見えたけど…」
「だって、別のチームのスカウターなんて…微妙でしょう?」
駄目と制限されるわけではないけれど、確かに微妙だ。
少なくとも、翼が所属しようとしているチームとは別…つまりは、敵になるのだから。
「それに、スポーツ事業部でも、選手と会社を繋ぐパイプみたいな仕事だっていうから…面白そうでしょ?」
「まぁ、ね。でも仕事だよ」
「わかってる。想像することしかできないけど…頑張るよ」
学生生活のように、全てが受け身で進んでいくわけではないことくらいは、百も承知。
それでも、やってみようと思ったことだから、頑張りたかった。
「ねぇ、紅。これは話しておかなきゃいけないと思うんだけど…」
「ん?」
ふと見せた真剣な表情に、先ほどまでの陽気な空気が消える。
刺すような居心地の悪いものではなく、ただ真剣なだけ。
「俺たち、もう結婚できるんだよね」
「…けっ、こん…」
考えたことがないわけじゃない。
いずれ、そうなるかもしれないと…暁斗と玲の入籍の話を聞いた時に、そう思った。
ただ、現実感がなかっただけ。
「でも、何の将来性もないうちから結婚しようなんて言えないし、言いたくない。だから―――」
改めて、翼は紅の手を取った。
先ほどとは違う、左手をそっと握る。
彼の親指が撫でたのは、将来を約束するための左の薬指だ。
「紅を守る自信が持てたら、言うから。それまで待っててくれる?」
「―――うん」
本当なら、もっと言いたいことがある。
けれど、言葉が詰まってしまって、頷くだけがやっとだった。
ただこの気持ちはだけはわかってほしいと、何度も頷く。
そんな紅を見て、翼がふわりと笑った。
「ありがと」
「そんなの―――」
私のセリフ、と呟いた彼女の目から、涙が零れる。
プロポーズされたわけではないのに、感極まってしまった涙は止まらない。
「泣くのはその時にしてほしいんだけど?」
翼は苦笑しつつも腕を伸ばして、彼女の頬の涙を優しく拭った。
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