夢追いのガーネット
Episode High School May
夕食の後、話がある、と告げられた紅は、自室で学校の宿題を片付けていた。
土曜と言うこともあり、今日は雪耶家で過ごすことになっている。
玲もそろそろ帰ってくるか、と時計を見上げた所で、ベランダのガラスが鳴った。
開いたカーテンの向こうに見えた翼の姿を確認すると、そのまま手を伸ばして鍵を開ける。
そのまま翼が部屋に入るのを見届けず、机の上に置いていたポットに近付いた。
伏せていたカップにティーバックを引っ掛け、熱い湯を注ぐ。
丁度良い頃合を見計らって用意していた皿にティーバックを避難させ、カップを平机へと運んだ。
既にいつもの場所に腰を下ろしていた翼が礼を言う。
「ごめん。出かけて疲れてない?」
「この程度で疲れたりしないから大丈夫。それより、話したいことって何?」
行き成り本題に入る必要はないかもしれないけれど、話があると言った翼の表情が気になっていた。
何かを決意したような、そんな真剣な表情だったから。
湯気立つそれを口に含み、一息つく。
そして、翼が紅を見た。
「頑張るのも、無駄に苛立つのもやめようと思ってね。それを伝える為に」
「………それって」
頑張る、無駄な苛立ち。
この二つの意味する所を考える。
答えはすぐに見つかった。
「サッカー…辞めるの?」
戸惑った様子で問いかける紅。
もちろん、学校の部活を辞めたところで、彼には選抜と言う練習場所がある。
ストレスになる部活よりは何倍も有意義な場所だ。
しかし、飛葉中時代の翼の部活中の様子を知っているからこそ、紅は手放しに頷く事はできなかった。
そんな彼女に対し、翼はきょとんと目を見開く。
「は?辞めるわけないじゃん。そんな、逃げるみたいなマネ、俺がすると思うの?」
呆気なく返って来た答えに、紅は疑問符を浮かべて首を傾げる。
「じゃあ、どうやめるの?」
「大人しくしてる、って意味。実力主義だと思ってたけど、そうじゃないなら時が来るのを待つしかないからね」
無駄な足掻きはやめることにするよ。
そう言って、既に封を切っていたクッキーに手を伸ばす。
そんな翼の様子を見ていた紅は、ハッと思い出したように我に返った。
「それ!」
「これ?欲しいなら食べなよ」
はい、と新しいクッキーを口の中に放り込まれる。
暁斗の躾の賜物で、口の中に物が入っている間は喋る事が出来ない。
さっさと噛み砕いて飲み込んでしまうと、クッキーじゃなくて、と声を上げる。
「サッカー部の話!あの人がキャプテンじゃないって知ってた?」
「…は?」
「だから、今サッカー部を仕切ってる3年の先輩!キャプテンじゃないの!」
「…そう言えば、キャプテンとは紹介されてないね」
自分の記憶を探った彼が、そう告げる。
やっぱり、と頷く彼女に先を促すような視線を向ける翼。
「今日、藤村に話を聞いてきたんだけど。うちのサッカー部のキャプテンって、実力主義の人らしいの」
「…で?」
「その人、入院してたんだって」
紅の言葉を聞いて、沈黙する翼は何かを考えているようだ。
彼の中では既に答えが出ているだろう。
後は、それを受け入れるだけ。
「………そう言うことか。変だとは思ったんだよ。あいつがキャプテンで、大会3位なんて不可能だし」
「…普段から先輩と関わらないようにしてたのが仇になったね」
「あいつとつるんでる様な先輩なら、関わらなくて正解だよ」
よほど好きではない種の人間のようだ。
ツンとした翼の様子に、紅は苦笑を零す。
しかし同時に、いつもの翼が帰って来た、と感じた。
これで、彼は高校の部活を楽しむことが出来るだろう。
どんな人なのかはわからないけれど…藤村の情報は期待できる。
クスリと笑ってから、膝立ちで翼の後ろに移動し、ぺたりと背中にもたれかかる。
寒くはない気温だけれど、このあたたかさは心地良い。
少し背中を丸めるようにしている翼のそこに沿うようにして軽く天井を仰ぐ紅。
「今月には復帰するだろうって。…楽しみだね?」
「…あぁ」
穏やかな空気が、湯気と共に部屋に広がった。
風呂から上がった玲は、コンコン、と紅の部屋のドアをノックする。
「紅?翼?」
帰った時はお帰りと言ってくれたのに、今は返事がない。
「寝ているの?」
明日の予定を確認したかったに…。
そう思いつつ、そっと部屋のドアを開く。
隙間から電気の光が漏れ出してきて、消しておこう、と開き加減を少し大きくする。
それに従って見えてしまった室内の光景に、玲はクスリと笑みを零した。
「まったく…何年か前にも、同じような光景を見たわね」
ベッドに凭れるようにして、二人が座っている。
お互いに肩を貸しあうようにして眠る二人にデジャヴを感じた。
もう高校生だというのに、この微笑ましさは何だろうか。
危機感を抱くような関係でない事はありがたいけれど、もう少し思春期独特の緊張感があっても良さそうだ。
―――写真に収めて暁斗に送ってあげようかしら。
玲の考えが伝わってしまったかのように、翼の瞼がピクリと動き、ゆっくりと開かれる。
「…玲?」
「ええ、そうよ」
「………何か用?」
「そろそろ帰りなさいよ、って伝えようと思ったのよ」
玲の言葉を聞いた翼の目が時計を探す。
起きたばかりで少しぼんやりとしているにも関わらず、紅が頭を乗せている身体を動かさないのは流石だ。
時間を確認した翼は、もうこんな時間か、と呟いた。
「ん。…帰るよ」
そう告げた翼は、出来るだけ振動を与えないように紅の頭の下から肩を抜き、そのまま抱き上げる。
ひょいとベッドの上に彼女を下ろす動作はとても丁寧で、そして愛しみに満ちていた。
紅を見下ろした翼の横顔を見た玲は、あぁ、と心中で頷く。
昔と変わらない。
そう思ったけれど、やはり変わっているのだ。
その身体と共に心もちゃんと成長している。
傍にいて当然になっている彼女を“守る”と言う愛情を覚え始めていた。
男の子ではなく、男の横顔を見た気がする。
玲ははとこの成長に小さな喜びを抱きつつ、静かに部屋の扉を閉ざした。
「紅、俺は帰るよ」
眠る紅に、静かに呼びかける翼。
その声により、彼女の瞼が開かれた。
「…帰るの?」
「もう12時前だからね。さっき、玲が帰れって言いに来たし」
「…玲さん来たんだ。全然知らなかったな…」
徐々に起きてきたのか、紅が上体を起こした。
ドアの方を見つめるも玲の名残を見つける事はできず、軽く肩を竦める。
「あ、翼。明日の夕食は私が作る予定なんだけど…食べる?」
帰ろうとベランダの窓を開く翼。
思い出したように彼のシャツの袖を握り、声をかける紅。
彼女を振り向いた彼はその表情を見て小さく笑った。
「食べて欲しいって顔してる」
「…うん。イタリアンに挑戦しようと思って」
「食べるよ。時間、またメールして」
迷いなく答えれば、彼女の表情が輝いた。
メールするね、と頷く彼女を引き寄せる。
そして、驚く彼女の唇に軽く自身のそれを重ねた。
二・三度瞬きをする紅は、状況を理解すると照れたように頬を染める。
「…久しぶり?」
「そう言えば、そうだね」
ずっと傍にいて、それが一番自然体だと思っている二人には、キスは特別必要なものではなかった。
久しぶりの行為は少しだけ照れるけれど、もちろん嫌と言うわけではない。
まだ頬を赤くしている紅の額にキスをして、ベランダを移る翼。
「おやすみ、翼」
「おやすみ」
からり、と互いの窓ガラスが閉じられた。
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09.05.07