夢追いのガーネット
Episode High School April

「え…兄さん、今なんて…?」

兄は今、なんとを言ったのだろうか。
目を瞬かせる紅。
本当は聞こえていた。
けれど、聞こえないように、理解しないようにしているだけ。
彼の告げた言葉は、自分にとって良いものではなかったから。



ほんの2分ほど前、リビングへとやってきた暁斗。
彼は、珍しく真剣な表情でソファーに座ったかと思えば、紅、と妹を呼んだ。
カレンダーに向って今月の予定を書き込んでいた紅は、何事だろうと思いつつペンを止める。

「なぁに、兄さん?」

モスグリーンの手帳をパタンと閉じ、膝の上に置く。
また仕事で何かあったのだろうか、と考える。
この時はまだ、自分にはさほど関係はないだろうと、安易にそう考えていた。
やがて、彼がゆっくりと重い口を開く。
その言葉が、自分の生活に変化をもたらすなど、この時は想像もしていなかった。













「本社に戻らなければならなくなった」

暁斗は、こう言った。
一字一句変わることのない、同じ言葉、同じ内容。
本社に戻る―――それが何を指すのか。
それがわからないほどに子供ではなかった。

「…どう、なるの?」
「………元々、俺が居るからとこの家に残ることを許可されてる。それは、わかってるよな?」

こくりと一度だけ頷く。
それは、海外に会社を持つ両親が日本を出るといった時の話。
嫌だと泣いた紅を見て、両親を説得してくれたのは他でもない暁斗だ。
経済面は十分に補助されているとは言え、男手一つで育ててくれた暁斗。

―――俺が紅を育てる。だから、ここで暮らしてもいいだろ?

彼が居たからこそ、自分はここに居る。
では、その彼が日本を離れることになったら?

「…すまない。一週間前に、本社で問題が起きた」

解決するには暁斗の力が必要なのだろう。
仕事のことなのだから、ここでわがままは言えない。
しかし、紅は「行って」とは言えなかった。

「どうしたらいいの…?」
「どうしたい?」

質問を質問で返される。
悩んで、悩んで…しかし、紅の答えは一つだった。

「………ここに居たい」

恩を仇で返しているような気がした。
暁斗が真剣で、どこか申し訳なさそうにしているのは、自分の所為だ。
今までずっと育ててくれた彼のことを思えば、素直に一緒に行くと言えばいい。
けれど、言えなかった。

「ごめんなさい、兄さん。私…ここにいたい」

4月も半ばになって、新しい学校での生活は始まったばかり。
まだ慣れるには当分時間がかかりそうなのだから、一緒に行けないことはない。

「わがままだけど、私の希望は…離れたくない」

誰と、と言う必要はない。
恐らくは、暁斗自身も何よりそれを感じてくれているだろうから。
ずっと一緒だったから、一緒に居るのが当たり前なのだ。
中学に入って少しの間離れていたけれど、二年生からはまた一緒になって。
離れていた時にどうやって生活していたかなんて、思い出せない。

「ごめん。わがままで…ごめんなさい」

従順で可愛い妹を演じることすら出来なくて。
声を小さくして俯く彼女。
リビングに沈黙が下りる。

「―――紅、勘違いするなよ?」

そんな声が聞こえ、紅はゆっくりと顔を上げた。
そこには、呆れたように苦笑を浮かべる兄の姿がある。

「俺の妹は従順じゃなくても可愛い。ってか、そんなのは求めてねぇよ」

よしよし、と俯き気味の頭に彼の大きな手が乗った。
髪を撫でられる感覚に、身体の緊張が解けていくのを感じる。

「お前の意思確認をしたかっただけなんだが…悪い。変に怖がらせたみたいだな」
「…?」
「いや、つまりな。別に、お前を連れて行くつもりはなかったんだよ」
「…は?」

先ほどの真剣な声とは打って変わり、いつも通りの声でそう言った。
思わず間の抜けた声が零れ落ちてしまう。

「試しただけと言うか、意思確認と言うか…とにかく、お前の考えが知りたかっただけだから」

無理強いをするつもりも、泣かせるつもりもないのだ。
ポンポンと頭を撫でる彼に、紅の脳内は情報の整理に忙しい。

「さて…紅の意思も確認できたし、行くか」
「行くって…どこへ?」
「ん?そろそろ来るんじゃないか?」
「来る?」

会話が成り立っていない。
彼は自分を連れてどこかに行こうとしていて、そしてここには誰かが来る。
全く意味がわからない、と眉を顰めた紅。
そんな彼女の耳に、インターホンの音が聞こえた。
すくっと立ち上がった暁斗が玄関へと向かう。
呆然とそれを見送る紅。

「引っ越すってどういうことなの!?暁斗!!」
「翼…?」

玄関の方からそんな声が聞こえてきた。
間違うはずもない、彼の声だ。
徐々に大きくなってきているのは、興奮がピークに達しているからか、近付いてきているからか。
ガチャリ、とリビングのドアが開き、暁斗に続いて翼が姿を見せた。
こちらを見ている紅に気付いたのか、翼が表情を変える。

「………っ。…暁斗!!」
「その話は今から進めようと思ってたところなんだ。ちょっと黙れよ、翼」
「~~~~~~っ」

黙れ、と言われ、必死に言葉を飲み込む翼。
息まで止めている様子を見ていた紅が、ふっと小さく笑い声を発した。
先ほどまでの緊張が嘘みたいに消える。

「翼って凄い」
「…はぁ…!?」

こちらは必死だというのに、何だそれは。
思わず声を上げる翼に、紅はいよいよ本格的に笑い出す。

「よし。紅と翼も揃ったことだし、行くか」
「どこに」
「おばさんから俺の仕事の話を聞いてきたんだろ?その件を、おばさんに頼みに行くんだよ」
「頼むって…兄さん、何を頼むの?」
「紅をよろしくお願いします、ってな」

「「………は?」」

笑顔で告げられた言葉に、紅と翼の声が重なった。

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08.11.17