Animal panic シリーズ
こんな事はありえない。
何度も頭の中でその言葉を反芻した。
しかし、状況は全くと言っていいほど変わってはくれないのだ。
肉球のある自分の手を見下ろしながら、成樹は現実逃避を目論んだ。
「お前どこの子?」
目の前で首を傾げる女性に見覚えがないはずがない。
むしろ誰よりも知っていると言い切る自信がある。
彼女の名前は雪耶紅。
今は男装しているのだから、呼び名としては暁斗だが。
「首輪もないし…野良猫か?」
そう言いながら紅はそっと手を伸ばし、目の前の子猫を抱き上げる。
それが自分の親友だとは知らずに。
「にゃぁ…(何でこんな事に…)」
完璧に猫の手になってしまっている自分の腕を見下ろして成樹はそう漏らす。
その言葉が人の言葉として零れ落ちる事はなかった。
「随分汚れてるなぁ、お前」
そんな薄汚れた子猫を何の躊躇いもなく抱き上げる紅。
優しく包み込む彼女の腕は心地よく、成樹は思わず目を細める。
しかし、細めてしまってからハッと気づいた。
どうやら感覚も猫に近くなってしまっているらしい。
「にゃあ!(紅!)」
「ん?」
急に鳴き声を上げる子猫(成樹)を見下ろしながら紅は笑む。
その笑顔は思いのほか優しく、成樹は口を開いたまま固まってしまった。
不自然に動きを止めた猫に疑問を抱きながらも、紅は猫を片手に移す。
そして自分のジャケットのフードの中に入れた。
「じっとしてろよな。連れて帰ってやるから」
ポンポンと優しく頭を撫でると、紅は自転車を走らせる。
彼女の肩越しに過ぎ去っていく風景を見ながら、成樹は思った。
「(ね、猫の身体には速すぎるっちゅーねんっっ!!)」
恐ろしいほどの恐怖を感じて、成樹はフードの中に逃げ込んだのであった。
引っ込んでしまった猫を気にしながらも紅はそのままスピードを落さずに家へと急ぐ。
「お帰り、お姉ちゃん!!……って何?その猫」
「ただいま。何か溝に落ちてたから助けてやった。風呂に入れてやるからこれ母さんに届けて」
「はーい」
妹に買い物袋を渡すと、紅はフードから子猫を取り出して腕に抱く。
くたりと彼女の腕に擦り寄る猫を見下ろし「酔ったのか?」と呟いた。
「(疲れた…。っちゅーか俺って溝に落ちとったんかいな。道理で周りがコンクリートの高い壁やったわけや)」
どうせ声に出した所で、紅にそれが伝わるはずもない。
成樹は頭の中で思うだけに止め、それ以上鳴き声を上げる事はなかった。
大人しく腕に抱かれている子猫を案じながらも、紅は洗面所へと歩く。
時折耳をくすぐってくれる彼女の指が心地よかった、と言うのも大人しく抱かれていた理由であると言う事を紅は知らない。
「熱くないか?」
紅は子猫に問う。
小さく「にゃあ」と返って来た返事が何故か肯定に聞こえ、紅は満足げに頷いた。
子猫が恐がらないようにと、紅はシャワーを使っていない。
自分の手でぬるま湯を掬い、子猫の身体にかける。
一掬いごとに子猫の毛を汚していた泥が流れ落ちていた。
「(しかし何で俺は猫に?人間を捨てた覚えはあらへんねやけどなぁ…)」
朝は普通に人間として生活していたはずである。
慣れない身体に些か不都合は感じる物の、何故か不安はなかった。
成樹は黙り込んだまま自分を洗ってくれている紅を見上げる。
いつもとは違ったアングルで見下ろしてくる彼女の表情は優しかった。
きっと、彼女が傍に居るから…だから不安を感じずに居られるのだろう。
「シャンプーつけるから暴れるなよ」
そう一声掛けると、紅は手に出してあったシャンプーを子猫の毛に馴染ませていく。
程なくして、子猫の身体は白い泡に包まれた。
「(不便やわぁ、この身体。自分で洗う事も出来へんやん。紅の指は気持ちええけど…)」
小さく溜め息を落とし、成樹は自らの尾を揺らす。
尻尾を自在に操る、と言うのは何だか新しい感覚だった。
シャンプーを全て洗い落としてやると、紅は子猫をバスタオルで包んでリビングまで移動した。
もがもがとタオルの中から這い出してきた小さな鼻面を見てふっと笑みを零す。
「こーら。暴れると落ちるぞ」
息苦しくないようにと頭だけをタオルから出してやると、そのままソファーに座り込む。
自分の膝にタオルで包んだ猫を乗せた。
「じっとしてな」
そう言って毛に含まれた水分をタオルで取る。
わしわしとタオルで子猫を拭けば、短い毛並みはすぐに柔らかさを取り戻した。
膝の上から彼女を見上げ、子猫(成樹)は思う。
「(このアングルの紅って妙に色っぽいなぁ)」
考えていた内容は猫にあるまじき事であったが。
「……へぇ…お前アイツと同じ毛色だな」
いつの間にか用意してあったペット用の櫛で毛を梳かしながら紅が呟く。
子猫の身体は光の加減で金色にも見える。
「綺麗になってよかったな」
紅はまた優しい笑みを見せた。
どうやら彼女は動物が好きらしい。
これは成樹も知っていたことであるが、実際に体験するのとではワケが違う。
この分だと動物からも好かれるのだろうと、彼は思った。
そう思えるほどに、優しく安心感のある笑みなのである。
自分を撫でる大きく美しい手も心地よい。
人間の身体の時には小さく感じる手なのだが、今の身体には大きすぎるほどだ。
「さて…どうするかねー…。別にウチで飼ってあげてもいいんだけどさ」
そんな言葉を聞きながら、成樹は心地よさに身を任せるようにゆっくりと目を閉じた。
「って和んどる場合ちゃうやん!!」
成樹は文字通り飛び起きた。
同時にそんな声を上げて。
「……あれ?喋っとる…?」
先程まではどれだけ口を開こうと、言葉は「にゃあ」やら「にゃう」等と言う到底人間には通じない言葉だった。
しかし、今はちゃんと言葉を話している。
それに疑問を抱くと同時に、彼は自分の身体を見下ろした。
視界に入るのは肌色の手と十の指。
「戻って……っちゅーか夢…?」
今座り込んでいる場所も自分の部屋だと気づく。
全てが夢だったのだと悟るまでそう時間は要らなかった。
そんな時、自分の携帯が着信音を奏でる。
画面に映し出される名前は――
「もしもし?」
『成樹?』
「せやで~。どないしたん?休みに掛けてくるなんて珍しいやん」
『うん。実は相談したい事があってさ。今、暇ある?話してOK?』
「ええで。何の相談?」
『…子猫拾ったんだ。金色の毛の。それでさ――――』
「……………」
数日後、成樹が紅の家を訪れた。
出迎えてくれたのは愛しい彼女の笑顔と、その腕に抱かれる『シゲ』と名付けられた金毛の子猫。
世の中不思議な事もあるものだ。
05.07.17
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