プールな時間

「……寒い」
「いくら暖かいっちゅーたって、まだ5月の末やしなぁ…」
「何でこんな所で泳がされるわけ?」
「や、俺に言われても困るねん。監督さんに直接聞きや」
「……できるかっ」

縛っていた髪を解くと、ポタポタと雫が肌を伝う。
それは重力に従って地面に落下して、コンクリートの色を濃く染めた。















事の発端は昨日の夕食時だった。
ここ数日と変わらぬように、大食堂へと集まった合宿参加者達。
それぞれ仲の良い者同士が集まり、他愛ない談笑に花を咲かせている時だった。

「紅、ちょっと来てくれる?」
「はい」

監督の一人である玲に呼ばれると、紅は元桜上水メンバーに一言断って彼女の元へと急ぐ。
紅は食堂である事を弁えていた為に、埃が立つように走ったりはせず、早足で進む。
そう離れていなかった監督らの集まるテーブルに付くと、紅は否応無しに玲の隣に座らされた。
見惚れるような笑顔を浮かべて玲が紅に何かを話したようだ。
紅が必死に首を横に振っているのが成樹の視界に映る。
やがて、紅の方ががっくりとうな垂れた。
どうやら折れたのは彼女の方らしい。
嬉々として立ち上がった玲は、大食堂を一瞥して声を上げる。

「皆、聞いてちょうだい!明日の予定を話しておくわね」

玲の声が大食堂へと響く。
紅の深い溜め息は、彼女の声に掻き消された。













「行き成り『明日は泳いでもらうわね。天気もいいようだから』やもんなぁ…」
「まぁ、トレーニングに水泳が向いていると言う事は認めよう。だけど…普通5月に泳がせないだろっ!」
「せやから…俺に言われても困るって」
「だいたい「紅!サボってたらトレーニング倍にするわよ?」」

紅の背後から声がかかった。
振り返れば笑顔を浮かべる玲の姿。

「駄目じゃないの。折角皆の為に華を用意したんだから、ちゃんとしないと」
「人を勝手に華にせんでください」
「一人しか居ないんだから仕方ないでしょう?」
「玲さんも女性でしょう!?」
「あら?こんな年上よりも同年代の娘の方がいいに決まってるじゃない。ねぇ、藤村君?」
「…監督さん…俺に振らんとって…」

何とも言えない表情を浮かべて成樹が返す。
玲はそれににこやかな笑みを返すと、紅の腕を引いて立ち上がらせた。

「さ、行くわよね?」
「寒いんですけど」
「そのうち慣れるわよ。今からは私も泳ぐんだし…競争しましょ?」
「……勝ったら奢ってくださいね」
「いいわよ。その代わり…負けたら部屋掃除ね?じゃ、先に行くわね」

クスクスと笑って、玲が去っていった。
彼女の背中を見送ってから、紅がハッとしたように声を上げる。

「あ!結局泳ぐ約束しちゃったし…」
「普通に約束したよな、自分。乗せられすぎやで…」
「………………行って来る…」
「さよか。ほな、俺も行くわ」

そう言って立ち上がると、成樹は紅の隣に並ぶ。
彼の用意が整ったのを確認し、彼女はゆっくりと歩き出した。

…その足取りは重かった。













要領のいい人間と言うのは、何をやらせても人並以上に出来るものである。
そして、紅はその“要領のいい人間”だった。

「っし!玲さん!合宿終わったら奢ってもらいますからね!!」

やっと冷たすぎる水温にも慣れたのか、紅が嬉しそうな声を上げて隣のコースにいる玲に声をかける。
彼女は苦笑しながらも頷いた。

「思ったより速いのね。驚いたわ」
「まぁ、小さい時からサッカーの合間に父に泳ぎに連れて行かされましたから」

思い出すように笑う紅を見て、玲はふっと目を細める。
彼女達の一勝負は合宿参加者の注目を集めていた。
それも無理はない。
この合宿で見目麗しい女性といえばこの二人しか居ない。
他は…皆の腹を満たしてくれる食堂のおばちゃんたちくらいだ。
さすがに彼女達に泳がれても別の意味で目のやり場に困る事になるだろう。

ザバッと水を纏いながら紅がプールから上がった。
しなやかな肢体を流れ落ちる水に一同目を奪われる。
たっぷりと水気を含んだ髪を鬱陶しそうに払う紅。
その一連動作すら、洗練されているように見えた。
そんな状況を良しとしない男がここに一人。

「うわっ!」

行き成り頭から上着を被せられた紅。
思いも寄らないそれに、狼狽した声を上げてしまった。

「な、何?」
「寒いやろ、羽織っとき」
「あぁ、ありがと。でも、濡れるけど…」
「構へんよ。俺もさっきまで着とったし」
「んじゃ、ありがたくお借りします」

先程まで自分の着ていた上着を羽織らせたのは、言うまでもなく成樹。
ちなみに、後ろ男性陣のがっかりした声が上がっていたが、紅の耳には届いていない。
彼らの声に満足そうに笑みを浮かべていると、不意に紅からの視線を感じた。

「どないしたん?」
「いやー…お前って泳げるのかな、って思って」

紅がそんな事を言い出す。
確かに、成樹は初めに水に入ったきり、一度も泳いでいない。
紅も先程まで同じ状況だったわけだが…。
玲と500mと言う距離を競争したのだから、彼女が泳げる事は明白だ。
ゆえに、紅は気になったのである。
「…一応、学生時代助っ人家業しとったんやけど…?」
「あ、そっか。って事は泳げるよな。水泳部だけ無理です、何てあんまり間抜けだし」
「………酷い言われようやな」

皐月のとある一日の風景―――

05.05.03