064.引き留め呪文
「なぁ、それさ。誰かにやんのか?」
家庭科準備室。
今日だけは、普段は閉まっている窓を、換気の為に開けていた。
聞き慣れない場所からの声に、振り向いた顔に浮かぶ表情は怪訝。
網戸の向こうに、いつぞやの赤髪が見えた。
「…“それ”って…これ?」
彼の指す“それ”と思しき皿を持ち上げる。
そこには、先ほど切り分けてきたばかりのシフォンケーキが並んでいた。
そう、それ―――彼は屈託ない表情で頷く。
「別に誰に上げるわけでもないよ」
「料理部って誰かにやんの禁止?」
「そんなわけないじゃん。それが目当てで頑張ってる子も多いのに」
まさか、と笑いながら、重ねていた皿を棚に戻る。
準備室に来ていた本来の目的は、使わなかった皿を戻す事だ。
最後のひと山を棚に戻し、ガラス戸を閉じて開かないように鍵をする。
そこで、家庭科室から「もうすぐ終わるわよー」と私を呼ぶ声が聞こえた。
「すぐに戻ります!」
そう言って、脇に置いていたそれを持ち上げ、家庭科室へと繋がるドアを振り向く。
「なぁ!」
「何?」
「それ、誰にもやんねぇなら俺にくれよ!」
「…他の子から貰えると思うよ」
彼がそれなりに人気のある男子生徒だと言う事はわかっている。
私が上げなくても、きっと誰かが持って行くだろう。
「だって、めちゃくちゃ美味そうな匂いしてるからさー」
その呟きが聞こえて、思わず足を止めた。
少しだけ悩んで、開いている窓の方へと歩き出す。
不思議そうに首を傾げる彼の目の前で、網戸を開けた。
そして、切り分けた時にできた欠片を一つ摘み、彼へと差し出す。
「食っていいのか?」
返事の声はなく、頷く。
あー、と口を開いて一口で食べてしまう彼を見ていると、まるで餌付けをしているみたいだと思った。
「やっぱ美味い!!」
嘘偽りなく、彼は心からそう言っている。
それがわかる満面の笑み。
「…まだ部活中だよね?」
「?おう。今、休憩中」
「じゃあ、また後で来て。残り、あげるから」
「!わかった!ぜってー来るからな!!」
そう言って、軽やかな足取りで走り去る彼を見送る。
使わないと思うけれど、一応…と思って持ってきたラッピング用品が、思わぬところで活躍しそうだと思った。
「ブン太って美味しそうに食べるよね」
「美味いもんを食ったらそうなるだろ?」
「…うん。ブン太のそう言う所、ホントに好きだなぁって思う。…その表情が始まりだし」
「始まり?」
「おかわり、いる?」
「いる!」
丸井 ブン太 / スイートピー