054.奪う前の、その一瞬
なぁ、と声をかけられ、航海日誌に落としていた視線を上げて振り向く。
すぐそこにいた彼との距離の近さに目を見開くも、そこに照れた表情はない。
そんな彼女を見て、シャンクスは意味ありげに、はぁ~、と長く溜め息を吐き出し、折っていた腰を戻した。
「…人の顔を見て溜め息を吐くなんて、失礼だと思うけど」
「溜め息くらい許せよ」
「………まるで、こちら側に非があるみたいに聞こえる」
適当にあしらうつもりだったけれど、何となく会話を続けなければならない気分になった。
首だけを振り向かせるのをやめ、椅子ごとシャンクスに向き直る。
そんな彼女の態度を見て、肩を落とす彼の様子は、何かに落胆しているように見えた。
人の行動一つ一つに落胆やら溜め息やら…まったくもって、失礼な態度だ。
「何な―――」
何なの、と言う声が半ばで途切れる。
前触れもなく近付いてきた彼との距離がゼロになったからだ。
驚くも、慣れているのであっさりと受け入れてしまう彼女。
「…お前、照れなくなったよな」
「…は?」
唇が離れると、シャンクスはどこか気落ちした声でそう告げた。
意味が理解できず、間抜けな返事の声を上げる彼女。
「昔はキスの直前には息を詰めるみたいにして、耳まで赤くして…。可愛くて、気に入ってたんだがなぁ…」
何かを…と言うよりは彼女の反応を思い出すようなシャンクス。
漸く頭の中を整理できた彼女は、シャンクス顔負けの長々とした溜め息を吐いた。
「毎日毎日、飽きるくらいにキスされて抱きしめてもらって…それが何年も続けば、誰だって慣れるわ」
「飽きるって…お前なぁ…」
「間違ってないと思うわ。誰に聞いても頷いてくれるはずよ」
彼女の言葉に、脳内で古株の連中が笑いながら「そりゃそうだ」と頷く様子がありありと想像できた。
「シャンクスに相応しいレディを目指した私の努力を認めてほしい所ね。これでも、街を歩けば片手で足りないくらい声をかけられるのよ」
「いや、そこは認めてるさ。お前は良い女になったよ。つーか、声かけられんのかよ」
だから一人で出歩くなって言ってるだろ、と緩く頬を抓まれる。
痛みを感じないそれは、やがて愛でるように肌の上を滑った。
「いつまでも可愛いだけじゃいられないの。特に、あなたみたいに高みを目指す人と一緒に進むためには、ね。それとも、昔の私じゃなくなったら、同じものを目指せない?」
そう言って口角を持ち上げる彼女は、昔のように屈託ない表情は見せなくなった。
けれど、多くの物を見て、体験して…彼女は強くなった。
大海賊を率いる頭の女としては、申し分ない器量だ。
「んなわけねーだろ。もっと上まで連れていくぜ?」
「ん。覚悟してるし、楽しみにしてるわ」
そう言って笑った彼女の表情には、ほんの少し―――昔の名残が垣間見えた。
シャンクス / Black Cat